2023年11月9日「与えられたもので生きる」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ゼファニヤ1:7、12~18、Ⅰテサロニケ5:1~11、マタイ25:14~30

 
 教会暦によれば一年の終わりは来週の日曜日です。ですから今日はその1週間前の日曜
日です。このところ、終わりの時に関する日課が続いています。目を覚ましているように
。用意を整えておくように。そのように伝えられているところが日課として与えられてい
ました。今日もその流れの中にある日課です。
 私たちは目に見えない神様を信じているものです。わたしたち人間を超えた存在、その
方を信じ、その方の光の下で生きています。真理であり、善であり、全てのものの創造者
であり、全能であり、愛である方、神様を信じています。目には見えていないけれど、不
思議なことにわたしたちはその方の存在を信じるようにさせられ、生きてきています。そ
してそのことはわたしたちができるだけ真実に、善であるように、そして愛を持って生き
るように力付けてくれるものでもあります。その神様に関して、終わりの時がきてそのと
き神さまがすべてを裁かれる、神様のまことの支配が成り立つときが来るということは、
聖書が伝えてくれているものです。まことに真実で善で、愛に満たされた世界が来るとい
うことはわたしたちにとってまことの希望です。
同時に不安を与えるものでもあります。終わりの時、自分は裁きに耐えられるだろうか
という思いがあるからです。旧約聖書の預言者の言葉を見ると、今日の日課もそうですが
、恐れを覚えるでしょう。厳しい裁きの言葉が続いているからです。旧約聖書に出てくる
預言者はほとんど、ダビデ王やソロモン王の後、混乱してきた時代に活躍した人たちです
。ですからその混乱の原因を指摘し、それに対して神様の裁きが来ることを伝えました。
しかもその裁きは、今の時に、具体的に来る裁きでした。そしてそう語ることの一番の目
的は人々が(特にその時支配している王様が)悔い改めてまことの道に立ち返ることでし
た。しかし、そのことがかなわず、外国への捕囚となってしまいました。わたしたちも裁
きの言葉には不安を覚えざるを得ないでしょう。先週の説教で、裁きの言葉で人々を恐怖
に陥れ、取り込んでいく宗教の姿を示されましたが、わたしたちはどうあるべきかを今日
の聖書の日課からから聴いてみましょう。
福音書の日課はタラントンのたとえ話の日課です。このたとえ話には注目すべき二つの
ポイントがあります。一つはある人が旅に出かけるときに僕たちに渡したタラントンの数
の違いです。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンで
した。二つ目のポイントは土の中に埋めた人の理由です。主人が「蒔かないところから刈
り取り、散らさないところから集められる厳しい方だと知っていたから」というものです

タラントンはお金の単位を現していますが、1タラントンは6千デナリオンで約20年分の
労賃に相当する大きなお金です。そしてマタイのたとえ話では与えられた額が違い、多く
与えられたものはそれをもとにして多く稼いでおり、少ないものが主人を恐れて土に埋め
たとあります。実は同じようなたとえがルカ福音書にもあり、そこではムナというお金の
単位が出てきて、その特徴は10人に同じ額の1ムナずつを渡したとあります。額の違いが
あることがマタイ福音書の特徴です。タラントンは今の私たちが知っているタレントのも
とになっている言葉です。タレントの意味は才能です。そうすると私たちの人生の歩みに
おいて考えるべきことが生じます。わたしたちは多く与えられていると思うと、自信を持
って努力して活躍しますが、少なく与えられていると思うと、ひがんで、縮こまってしま
います。しかしここが示していることは、わたしたちが与えられているものが、多く見え

ようが小さく見えようが、それを感謝して受け取って、そのものによって生きることが教
えられているということです。
2番目のポイントは、主人に対する恐れです。マタイ福音書もルカ福音書もこのことは
共通していますので、このことがイエス様が言われたかったことの本質を示しているかも
しれません。主人は神様とみていいと思いますので、神様がどのような方であると私たち
が理解しているかが問われています。そして裁きの時、終わりの時に対する考えにも連な
ります。
どちらのたとえも、神様が厳しい方で、理不尽なほどに裁かれる方だと、恐れて、何も
しないでいる人に対してノーと言われています。
一方旧約聖書の日課では「『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っているもの
を罰する」とあります。これは主はなにもされない。生きて働かれはしないのだという神
さまに対しての緊張感のないさまを現しています。それに対してイエス様は、思い悩むな
という内容で空の鳥、野の花を見なさいとの教えをされています。これは神様は今も生き
て働かれ、わたしたちはその御手の中にあるのだと教えられているところです。だから神
様はなにもされないよという思いで生きることは信仰者の在り方ではないことが分かりま
す。
では最後の裁きに対して恐れを持って生きることはどうでしょうか。恐怖を顕す恐れで
はなく、畏怖を顕す畏れは求められていると思えます。それは終末のことがたくさん示さ
れていることからも分かります。では恐怖のみでの恐れはどうでしょうか。神様が厳しい
方であることのほうに重点が置かれて、終わりの時を恐れて生きること、縮こまって生き
ることは今日のたとえ話からはだめだと言えるでしょう。では逆に自分は十分に生きてい
る、良いことをして生きているから大丈夫だという、神さまへの恐れなしの生き方はどう
でしょうか。聖書から見るとこれもやはりだめであると思います。
では何が必要でしょうか。それはイエス・キリストによって、神様が愛であり、わたし
たちを命へと導いてくださる方、イエス・キリストの出来事によって私たちを贖い、救い
へと入れてくださる方であると、神様を信じて生きることが大切であると示されていると
思います。
今日の使徒書を見るとパウロは「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありま
せん。」と伝え、「だから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないの
です。」と言って、恐怖の中にいないことを示しています。「神は、わたしたちを怒りに
定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるよう
に定められたのです。」とわたしたちのある姿を示してくれています。だから「信仰と愛
を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と勧めてい
るのです。