2023年8月6日「まことの平和」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ミカ4:1~5、エフェソ2:13~18、ヨハネ15:9~12

 
 ニューヨーク国連広場の壁に、聖書の『イザヤ書』の言葉が刻まれています。
そのため、この壁は「イザヤ・ウォール」と呼ばれています。その言葉はイザヤ2:4で「
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち
直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」国連が向
かうべき姿を示していると言えるでしょう。
 今日の旧約聖書の日課ミカ書の箇所も「イザヤ・ウォール」と同じ内容が載っている個
所です。イザヤとミカは大体同じ時期に南ユダ王国で活躍した預言者です。イザヤはエル
サレムの上流階級出ですが、ミカは地方の農村出です。
ミカの箇所を見るとその表題に「終わりの日の約束」とあるように、終末時の平和な姿
が示されています。神の都とされているエルサレムが中心となり、人々がそこに集まりま
す。そしてそこから神の言葉が発せられるのです。そしてイザヤと同じ平和の姿、戦いの
ない世界、武器が農具に変えられる世界が描かれています。そして、その時は農家にとっ
て理想の形、すなわち自分が働いてできた作物を自分がいただく世界です。そして5節で
はこの世はまだ自分勝手な道を歩んでいるが、わたしは神様の名によって歩むと宣言して
います。
 ここで注目すべきことは、このミカの箇所が示されていますが、その前はエルサレムに
対する厳しい裁きが示されているのです。ということはエルサレムの人々が神さまのみこ
ころによって歩んでいるわけではないのです。それゆえに厳しい裁きが告げられるのです
。現実には外国の軍の力、すなわち槍や剣によって苦しめられ滅ぼされるのです。そのよ
うな中で今日の箇所が告げられるのです。それは神様からの約束として、終末の出来事と
して示されています。
 現代の私たちの世界も厳しい現実の中にあります。それはウクライナでの戦争や中東に
おける戦いによく示されています。力あるものが武器、今では砲弾やミサイルですが、で
攻撃しています。また砲弾やミサイルで応戦しています。そのような現実ですが、わたし
たちはそこに埋没し、希望を失うべきではありません。そのような中にもミカ書が示して
くれた神さまの約束はあるのです。「我々は、とこしえに、我らの神、主のみ名によって
歩む」ところに立つべきです。
 では今日の使徒書と、福音書から「主のみ名によって歩む」ことがどのようなことであ
るかを聞いてみましょう。今日の使徒書で平和に関するこのような言葉があります。「実
に、キリストはわたしたちの平和であります。」イエス・キリストこそわたしたちに平和
をもたらす方であることが分かります。ではどのようにしてでしょうか。色々な言葉が出
てきます。遠く離れていたものがキリストの血によって近いものになったとか、「敵意と
いう隔ての壁を取り壊す」とか、「律法を廃棄されました」とか、「新しい一人の人を造
り上げて」などです。これらの言葉からどんなことが聞き取れるでしょうか。
 人と人との間が遠く離れていること、そしてそこには敵意があること。その状態にある
ものでは旧約が示す律法は役に立たないそのことがまずわかります。そしてそれを解決す
るためには敵意を取り除く、新しい人に造り上げられることが大切であると示されていま
す。新しい人を造り上げるにはまず神様との和解が必要であること、そのためにはキリス
トの血、十字架の死があることが分かります。十字架の死はキリストが肉において十字架

で死なれたことをもまた意味しています。十字架はわたしたちの贖いと同時にわたしたち
がキリストと共に自分の肉に死ぬことも大切なこととしてあります。それが敵意を取り除
くのです。
 福音書の方から見てみましょう。ここでイエス様はあり方の積極的な面「愛」を取り上
げられています。イエス様はまず、「父がわたしを愛されたように」と上げられます。神
様がイエス様を愛されたことはどこに表れているでしょうか。神様がイエス様を愛されて
いたことは福音書の中にどこにあるかと考えると、すぐ考えられるのは神様がイエス様の
ことを愛する子と宣言されているところです。それは2か所あります。イエス様が洗礼を
受けられた時と、山上で変容されたときです。そこで「あなたは(これは)わたしの愛す
る子、わたしの心に適う者」という天からの声、すなわち神さまの声、宣言があります。
神様が愛されているイエス様、イエス様がその愛にとどまられたとき、イエス様はどのよ
うに生きられたのでしょうか。最初の洗礼の時はその後活動に入られました。神様からの
よい知らせ、すなわち福音を伝えること、神さまのみこころを教えること、また病んだ人
をいやし、罪に苦しんでいる人を解放されました。これが神様の愛の内に生きられた時の
イエス様のはじめの姿です。二番目の神様の愛の宣言の後はどうでしょうか。それは十字
架の死の道を歩まれ、死を受け取られたことです。それは肉となられたイエス様が十字架
の死を受け取られることです。それは人々の贖いでもありましたが、イエス様が自分の肉
に死なれることでもあったのです。そしてその死がわたしたちが自分に死ぬことへと導く
ことになりました。愛し、愛にとどまることは積極的な面、喜びが伴う面と同時に自分に
死ぬことがそこにはあるのです。それが新しい人を造り上げるのです。
 何度も言っていますが、神様はわたしたちを自分に似せたもの、主体性を持つものに創
造されました。わたしたちは神さまのみこころに応答しなければなりません。頭の中でそ
れを知るだけでは十分ではありません。頭の中で理解すると同時にそれを受け取って、そ
こに生きることが大切です。平和の主日として今日聞き取ることは、人の間を隔てている
もの、敵意を取り除くことです。それは自分の肉に死ぬこと、イエス様の死と結ばれて、
自分に死ぬことが大切です。このことを今日は聞き取って、イエス様の愛の内にとどまっ
て生き続けましょう。