礼拝説教
イザヤ44:6~8、ローマ8:12~25、マタイ13:24~30、36~43
今日は毒麦のたとえが主題となっています。毒麦というとやはり私たちは暗い思いに捕
らえられます。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの話となるとやはり暗い思いにな
ります。しかし毒麦のことはわたしたちが生きている時の現実ではあります。わたしたち
は何らかの群れに属しています。その時毒麦の問題がいつも存在するものです。今日はイ
エス様が言われようとしておられることを聖書に沿ってみることと、群れの中の毒麦に関
する注意すべき問題をも現代の状況の中で見てみましょう。
種が成長する問題を取り上げられたイエス様はやはり毒麦の種の問題も重要なものとし
て取り上げられました。初期の教会においても異端的な考え方が生じましたので、それと
の戦いもありましたから、イエス様のこの毒麦のたとえは関心のあるものとして記憶され
ていたでしょう。
種まきの時、たくさんの種の中には違った種が混じっていることがやはりあったでしょ
う。当時のパレスチナではそのようなことが多々あったようです。そしてそれらの種が発
芽した後、初期の段階ではその違いが分かりにくかったようで、抜き取られず、一緒に成
長してゆきました。そして成長してゆくと互いの根が絡まって育っているので、毒麦だけ
を抜くことは困難でした。そうゆう状況の中でイエス様のたとえ話があります。
初めのたとえの方の中心的なメッセージは何でしょうか。やはり、僕たちが毒麦を抜き
ましょうかと言ったのに対して、主人が「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くか
もしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」というところでしょう
。たとえの説明の方の中心は終末に神様が裁いてくださることの方に移っていますが、初
めのたとえの中心はやはり、抜き取らないで待つことでしょう。神様に任せることでしょ
う。
群れの中で、問題を起こす人を抜き取ることはある意味で簡単な解決方法です。抜き取
らないで共に歩んでいくということは苦しみが伴います。今日の使徒書のローマ書の箇所
の後半部分は「うめき」が表れてくるところです。被造物全体が神の子たちのあらわれる
のを待ち望み、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていると伝えています。全被造物
がうめいているというのです。確かにそうかもしれません、戦争において人間だけでなく
他の被造物、動植物や自然が破壊されていますし、豪雨などはうめきの姿かもしれません
。うめきはそれだけではなく、霊の初穂をいただいているわたしたち、すなわちわたした
ち信仰者のことですが、終わりの時の体が贖われること、復活と言っていいでしょうが、
それを心の中でうめきながら待ち望んでいると言っています。信仰において救われた信仰
者もうめいているのです。うめいていると書いてあるから、わたしたちはどうしようもな
く暗いのでしょうか。そうではありません。うめいているという現実が示されていますが
、ここでパウロが言いたい中心はそこではありません。18節に「現在の苦しみは、将来わ
たしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」と述べ、
更に今日の日課の前半部分では肉と霊のことが書かれていますが、肉に従うのではなく、
霊に導かれていくこと、その時、神の子とされ、神の相続人であることが示されています
。ですからここの中心は喜びなのです。
旧約聖書の箇所には「わたしは始めであり、終わりである」と神様のことが示されてい
ます。これは神様がすべてであり、すべてをつかさどっておられることを示している言葉
です。福音書が終末の時の裁きを述べていることはこの全能の神様にすべてを任せ、信頼
することを伝えているのです。
最後に毒麦について私たちが陥りやすい問題点を見てみましょう。それは主人が毒麦の
ことを言ったとき、僕が「抜き集めておきましょうか」と言ったことに関係しています。
わたしたちは歴史の中において、そして現在の生活の中において、毒麦を抜きき去ってし
まう傾向をもっています。それがいい意味で、悪を除くのではなく、パウロによる肉に従
うのではなく、わたしたちの視野の狭さから、異質なものを抜き取ることによって解決す
る傾向があるからです。近い時代で見れば、一番有名なものは、ゲルマン民族の優秀性を
誇って、ユダヤ人を抹殺しようとしたナチスの歩みはそのようなものであったでしょう。
ヒットラーにとってユダヤ人は毒麦であったのでしょう。日本においても近いものはいろ
いろあります。アイヌ人の問題もその一つでしょう。わたしは50年以上も前に、北海道に
ヒッチハイクに行ったことがあります。その時、帯広の近くの音更というところの農家で
住み込みのアルバイトをしたことがあります。そのところにおいてアイヌの女性は尻軽で
ちゃんとしていないという考えがあることを知らされました。この考えで、アイヌの人た
ちを低く見るのも、この毒麦に対する私たちの在り方の拡大版であると思います。現代に
おいて、多様性を受け入れていこうという動きがあることは、毒麦のあり方に対しての反
省から出ているでしょう。LGBTの問題、最近ではLGBTQとQも付くそうですが、性にお
ける多様性を受け入れていこうという動きが出てきています。長い間、同性愛や、生まれ
ながらの性と心の性の違いで悩む人が多くあり、それを外に表わされない時代が続きまし
た。それはそれを表せば社会から冷たい目で見られたからです。これも毒麦として自分た
ちの群れから排除しようとする人間の姿の表れです。今日の日課から、毒麦を抜きましょ
うかといった僕の在り方が、問題を持っていることを私たちは意識することが大切である
と思います。多様性を受け入れることへの大きな障害になることを覚えていきましょう。