2023年7月2日「受け入れる人」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ28:5~9、ローマ6:12~23、マタイ10:40~42

 
 今日の福音書の日課の箇所はとても励ましになる言葉であると思います。マタイ福音書
の9章の終わりにイエス様は群衆が飼い主のいない羊のようであることに深く憐れまれて
、働き人を遣わしてくださるように祈りなさいと言われた後に、弟子たちを派遣されます
。その締めくくりが今日の箇所です。派遣するにあたりその心構えを伝えられ、また派遣
する場所はとても困難で迫害が生じるけれど、決して恐れることはないことを伝えられ、
さらに人々の中にある肉の支配を断ち切ることがイエス様のまことの働きであることを伝
えられた後に、今日の箇所があるのです。その内容は働き人を受け入れる者はイエス様を
受け入れるのであり、それは神様を受け入れることに通じると言われているのです。働き
人にとって、その人を受け入れるのはイエス様を受け入れるのであると言われるほど大き
な励ましはないでしょう。イエス様や神様に自分をささげようとして生きている。その人
に向かって「あなたを受け入れる人はわたしを受け入れるのです」と言われているのです
。働き人にとってこれ以上に大きな喜びはないでしょう。
 しかも、その人は優秀であることが求められているわけではありません。イエス様の後
の言葉「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に」から見れば決して優秀で
ある人のことを示してはいません。この「小さな者」は位とか力が低かったり乏しかった
りする意味でつかわれています。ですから、そのような小さなものとみられているのです
。そしてその言葉を使われて、この小さな者に水一杯飲ませてくれる人に神様からの祝福
があると言われているのです。どんなに働き人にとって励まされる言葉でしょう。
 この箇所において、わたしはいつも思い出すことがあります。それはご存知の方もある
と思いますが、東和春先生のことです。東先生はもう引退されていますが、牧師になって
最初の赴任地が厚狭教会でした。よい時代でこの地区のすべての教会に牧師が派遣されて
いた時代です。東先生から聞いた話ですが、若い、まだ牧師になったばかりの彼が毎週説
教します。そうするといつも説教壇の前に座っている一人の人がいます。末田華都子さん
ですが、彼女はいつも東先生の説教を聞きながらうなずいておられたそうです。牧師にな
りたてで、しかも東先生は雄弁な人ではありません。その先生の説教を聞きながら末田さ
んはいつもうなずいておられたそうです。東先生にとってそれがとても大きな励ましにな
ったということです。今日の箇所から言えば末田さんのうなずきは冷たい水一杯であった
と言えるでしょう。
 ではこの遣わされた人にイエス様が、この箇所で何か求められているものがあるでしょ
うか。それはあなたがたを受け入れると並べて、預言者を預言者として受け入れるという
ことと、正しいものを正しいものとして受け入れる、を並べて話されていることから推察
できます。預言者、すなわち神さまの言葉を預かって、その言葉を伝えることにしっかり
と立つことが示されています。また正しい人はファリサイ派や律法学者のような正しさを
言っていないでしょう。心が打ち砕かれて神さまやイエス様を心から大切にする人のこと
でしょう。もし遣わされた人に求められていることがあるとしたらこのことではないかと
思います。
 では遣わされた人は何を語るのでしょうか。今日の旧約聖書を見ると、ハナンヤに対す
るエレミヤの厳しい言葉が与えられています。この箇所を見ると何か厳しいことを語らね
ばならないように思えます。エレミヤは昔の預言者は多くの国、強大な王国に対して、戦

争や災害や疫病を預言したとあります。一方、ハナンヤは2年の内にバビロンに捕囚され
た人や、宝物が返されると伝えました。このことに対してエレミヤは平和を預言するもの
はそれが成り立った時まことの預言であるといいうると、ハナンヤの預言を批判していま
す。では私たちは派遣されたとき、何を語るのでしょうか。戦争や災害の預言でしょうか
。そうではありません。神様の恵み、イエス・キリストを通して示された神様の愛を語る
のです。「今や恵みの時、今こそ救いの日」を伝えるのです。
 エレミヤ書は何を伝えているのでしょうか。それはハナンヤの姿は今で言う「大衆迎合
主義」「ポピュリズム」の姿を示しています。その時の人々に耳障りのいいこと、喜ぶこ
とを語り、それは真実ではない。そのような在り方です。エレミヤの当時、預言者はエレ
ミヤの言うように語るのが神さまのみこころだったのです。そして今は神様の恵みを語る
のが神様の御心なのです。恵みの時と思えないような現状においてもやはり神様の恵みを
語るのです。それは、もうすでに成就されたイエス・キリストの出来事があるからです。
 むろんこの恵みに伴うもの、また注意しなければならないものがあります。イエス様が
今日の日課の前に、平和ではなく、剣を投げ込むために来たと言われたとおり、恵みを受
け入れて、その恵みの中を生きるためには、断ち切らなければならないものがあります。
また、今日の使徒書にあるように、恵みだから、すべて許されていると思って、肉の欲に
従って生き続けようとすることがあるのです。恵は罪を赦されたのであって、許可された
許しではありません。肉の欲に従う者は恵の命の中を生き続けることはできなく、罪の支
配の中を生きるようになるのです。このことを覚えて、永遠の命に至る、恵みの力の支配
の中を生き続けていきましょう。