2023年6月25日「全てをご存知の方」水原一郎牧師

礼拝説教

マタイ福音書10:26-31 「全てをご存じの方」

水原一郎
「生きる」ことは、「引き受けていく」ことです。主イエスは、マタイを弟子にした
際「マタイと共に生きる、引き受ける」決意をなさいました。マタイ自身も、自身の過
去や今を受け止め、主に支えられて生きる決意が徐々に固まったと思います。しかし
主の弟子となり、弟子とされた当初、決意はどうだったのか。皆さん、マタイが主の
弟子とされた時(9:9)、その事実を他の11人は(限定するなら漁師4人/4:18)どう受け
止めたと思われるでしょうか。例:「よりによって徴税人か」「熱心党の自分は相容れな
い」。主は、特にそのマタイの心を受け止めていたと察します。

この日、マタイ10章26節「恐れるな」と始め、31節「恐れるな」と結びます。「恐れる
な」とは、旧約では「出陣(申20:3等)」に際しての言葉です。敵と対峙する戦闘ではな
く、主は弟子たちやマタイに、どういう恐れと対峙することを期待するか。第一朗読
のエレミヤ書も参考になりますし、唐突ですが、パウロの生涯を思い起こしても良い
と思います。パウロは、迫害者の過去と、伝道者の今(ガラ1:15-16)を振り返ってい
ます。マタイも、徴税人としての過去から、弟子として召された今。漠然とした不安
を持っているかと察します。主はそのマタイにも語ります。

主は、29節で「捧げものの雀」、30節で「髪の毛」の話をなさいます。要点は、小さく
とも、多くでも、神さまに知られていることです。レビ5:11では、捧げものの最
小単位は「2羽」。捧げものが1羽では、慣例上は不十分でした。加えてアサリオンは
、1/16デナリオン。いずれも「取るに足りない、小さい」ものの代表です。しかし、神
は支える。また大きな不安でも、神は覚えている。主の時代の評価では「徴税人」は「
罪人」とされ、社会の枠外と見なされていました。世の中がどう評価されようが、主
はマタイの傍にあります。主の助けの中で、恐れに対峙するのです。

第一朗読は、預言者エレミヤの嘆きでした。エレミヤには別の課題がありました。
彼の嘆きはマタイと重なると思えます。「多くの人の非難」「弾劾しよう」など。しかし
エレミヤは、主なる神さまが共にあるがため、「任せる」という信仰に立つことが出来

るのです。主なる神さまがエレミヤを見、主イエスがマタイを見たその視線は私たち
にも向けられます。この日、主のみもとに招かれた私たちには、それぞれの祈りの課
題があることと思います。その課題は、主もまた引き受け、覚えるものです。日々の
出来事、事実を引き受ける私たちに、主の愛の豊かさを覚えたい。