礼拝説教
福音書箇所:マタイ9章9-13、18‐26節 説教題:たとえ笑われても
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今朝の福音書日課では、4つのことが語られたように思います。1取税人マタイが弟子と
されたこと、2食事の席でのファリサイ派の人たちとのやりとりがあったこと、312年間、病
に苦しんだ女性に癒しが与えられたこと、4指導者の娘が生き返ったこと。どれも、それだけ
で時間をかけて聞くことのできる箇所です。では、これらが一つにまとめられている意味はな
んでしょうか。結論から申し上げますと、主の求めはいけにえではなく憐れみであるというこ
とです。では、憐れみとはなんでしょうか。今朝はそのことを共に聞いてゆきましょう。
9節から13節を日課の前半とするならば、先ずマタイが弟子とされました。『マタイ、私に
従いなさい。』たったその一言で、マタイの人生は大きく変わりました。しかし、マタイの人生
がリセットされたわけではありませんでした。これまで取税人として生きてきたマタイを知る
人がやって来て、イエスさまの弟子たちに難癖をつけます。『お前たちの先生は律法すら知ら
ないのか。罪人や取税人が座っているぞ。律法に従えば、罪人と同じ食卓につくなどありえ
ないではないか。』もしかすると、弟子たちも同じように思っていたのではないでしょうか。自
分たちの輪にマタイを入れたくないとさえ思ったかも知れません。ですから、「医者を必要と
するのは丈夫な人ではなく、病人である」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためだ。」これらの言葉は、ファリサイ派の人にだけでなく、弟子たちにも向けられ
たのではないでしょうか。イエスさまが敢えて病の人や、社会の周辺に置き去りにされた
人々の所へ歩み寄って行かれたのは、可哀想だからでしょうか。そうではありません。『神さ
まの憐れみからこぼれた』と思われていた人たちに、イエスさまは『あなたも神さまの憐れみ
の内にあるよ』と告げるため歩んで行かれたのです。
後半は18節からでした。指導者の娘が死んでしまい、父親は立場や地位を越えてイエス
さまに平然と頭を下げたのです。自分の命よりも大切な問題が今、彼の目の前にありました。
信頼すべきは何か、そのことに彼は気付いてゆきました。その姿を見て、イエスさまは彼の家
に行こうと言うのです。道中、12年間長血を患っていた女性がイエスさまの服の房に触れま
した。彼女はイエスさまの服にさえ触れればどんな祈りも聞き届けられると信じていました。
しかし彼女は出血を伴う病にあったので、誰かに触れることも、見つかることもあってはなり
ませんでした。だから、気付かれないように、こっそりとイエスさまの服に触れたのです。彼女
もさきほどの父親と同じところに立っています。『この方に全てを委ねよう。』ただ一つ違うの
は、彼女はイエスさまに直接願い出ることさえ許されない場所に追いやられていたということ
です。自分はおろか自分に触れた者さえも汚れると、現代では正気かと疑うような状況がま
かり通る中、12年も生きてきたのです。私たちは、彼女の苦しみの深さが分かるでしょうか。
助けを呼ぶことさえ許されずに過ごした12年。明日が来ることさえ望まなくなっても不思議
2
ではない12年。しかし、彼女は12年間、望みを抱き続けました。いつか私に神さまが触れて
くださる。そしてその通りになったのです。イエスさまは彼女を見つめ、言います。「あなたの
信仰があなたを救った。」
指導者の家に着いたイエスさま。笛を吹く人、泣き叫ぶ群衆は当時の葬儀の在り方を表
しています。現代で言う葬儀社、エキストラと言っても良いかも知れません。彼らはイエスさま
が「少女は寝ているだけだ」と言った時、嘲笑うのです。彼らは指導者の娘の葬儀だからそ
こに集まったのです。決して、少女の命に寄り添った人たちではなかったのです。しかしそれ
は、祭儀律法に翻弄された人たちとも言えるでしょう。彼らを追い出し、イエスさまは少女の
手を取りました。すると少女は起き上がったのです。その後のことは何も記されません。父親
の喜びも、少女の反応も、証人である弟子たちのことも。マタイ福音書は、彼女が生き返った
からどうなったと、くどくどと述べません。教会が信じるのは何か、そのことにひたすら焦点を
絞ってゆきます。今朝の福音書日課を要約するとこうです。この世界に遣わされた人がいる、
罵声を浴びせる者に囲まれながらたった一人で苦しみを受けた人がいる、死んで葬られた
人がいる、その人は復活された。これはイエスさまの生涯そのものではないでしょうか。私た
ちはその道中、個々具体的な事例を聖書から聞いて、知っています。その後の弟子たちの歩
みも知っています。しかし、この世界に遣わされ、たった一人で苦しみを受け、死んで葬られ、
復活したのがイエス・キリストである、それが何より大切な要石なのだと、今朝の福音書日課
は告げているように思うのです。
最後に、今朝の福音書日課で繰り返し語られている犠牲と憐れみについて聞いてゆきた
いと思います。犠牲と憐れみ、言い換えるならば、律法と福音です。マタイ福音書5章、山上
の説教の中でイエスさまは言います。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、
と思ってはならない。廃止するためではなく、完成させるためである。」イエスさまは、律法(犠
牲)を否定しているのではないのです。そこに福音(憐れみ)があるのであれば、律法も生き
るのだと語られたのです。そのことがよく分かるのがクリスマスの出来事です。ヨセフは妻マ
リアの妊娠を知り、その場からいなくなろうとしました。何故なら自分はマリアの罪(姦淫の
罪)の証人であり、証拠だからです。ヨセフは律法をどうでも良いとはしません。律法を尊重
した上で、ヨセフはマリアに憐れみを示しました。そして天の使いはヨセフに語ります。「恐れ
ず、マリアを迎え入れなさい」ヨセフのその後も聖書は語りません。十分だからです。取税人
マタイも、12年出血で苦しんだ女性も、指導者の父親も、生き返った少女も、ヨセフも、憐れ
みと愛によって生きたと、聖書は沈黙と共に語るのです。そこに主の励ましが在ったことは言
うまでもありません。主の励まし、主の慰め、主の愛が私たちの上に豊かに与えられますよう
に。そして主の憐れみ、愛を伝える者としてくださいますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。