2023年4月2日「子ろばに乗って」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ50:4~9a、フィリピ2:5~11、マタイ21:1~11

 
 いよいよイエス様が十字架にかかられるために、その場所エルサレムに入られるときが
やってきました。受難週の始まりの日です。
 この世に人間となってこられ、成人してから神様の恵みとまた御心を人々に現わし伝え
る働きをされた後、十字架にかかるところのエルサレムに向かわれます。その間弟子たち
に自分は受難を受けて殺され、三日後に復活すると語り、神様のみ旨、自分のすべきこと
を伝え教えられました。弟子たちはまだ十分に理解せず、その心には自分の栄光を求める
心が潜んだまま、今日の時を迎えます。エルサレムに入られた後、イエス様は少し攻撃的
になられたように思えます。そのようにマタイ福音書は伝えています。いわゆる宮清めの
神殿の庭で商売をしていた人たちを追い出したり、神様の招きを受け入れない人たちの責
任を問うたとえ話をいくつかされたり、律法学者やファリサイ派の人たちの問題点を指摘
したりされ、エルサレムに対する嘆きの言葉を発されます。そのような転換点というか、
イエス様の歩みが一歩先に行くそのような時が今日の日課エルサレム入城の場面です。
 今日の旧約聖書の日課は第2イザヤの僕の詩の第3番目のものです。そこの題が「主の僕
の忍耐」とあるように、この僕は神様に従順で、忍耐して歩みます。バビロン捕囚からの
解放という、喜びの出来事なのですが、その途上ではいろいろな苦難があるので、人々は
この僕に苦しみを与えるのです。この僕が神様に従順であることを4節の後半に「朝ごと
にわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」と述べ、また苦
難が与えられる様をその後に「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背
中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りの唾を受けた
。」と記しています。そしてこの後に、人々の罪の代わりに死を受け取る「苦難の僕」の
詩があるのです。
 エルサレム入城には二つの特徴があるように思えます。一つはイエス様を取り巻く群衆
がイエス様を歓呼してエルサレムに迎えたということと、イエス様がロバに乗ってエルサ
レムに入られたということです。
 群衆は自分の服を道に敷き、木の枝を切って道に敷いたとあります。これは王や貴族を
迎えるときの態度であったと言われています。また「ダビデの子にホサナ、主の名によっ
て来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫びながらイエス様
についてエルサレムに入って行きました。ホサナという言葉はもともと「神よ助けてくだ
さい」という意味だったのですが、このころは万歳に近い意味で、彼らは叫んでいたでし
ょう。ともにエルサレムに入って行った群衆はイエス様を特別な神からの方と考えていま
した。エルサレムにいた人たちから問われたのに対し、預言者イエスだと答えています。
イエス様のいろいろな奇跡に出会い、その神様の働きをされる方が神の都エルサレムに入
られたこと、それによって神さまの力が働き、自分たちが敵から解放されることを信じて
このように歓呼したことでしょう。それはイエス様の神からの力を期待してのものであっ
たと思われます。イエス様の御心を十分に理解したものではなく、イエス様の神様の側か
らの力を期待してのものでしょう。ではイエス様はこれを拒絶されたかというとそうでは
ありません。マタイには書かれていませんがルカ福音書によれば、この群衆の叫びを止め
させてくれるようにファリサイ派の人がイエス様に求めたのに対して、イエス様は彼らが
黙れば石が叫びだすと言われました。自分を神からのものと信じて、救いを求めている彼
らの心を認めておられたのだと思います。

 もう一つの特徴はイエス様の側のものです。それは子ろばに乗ってエルサレムに入られ
たことです。凱旋するときの馬に乗ってではありません。その特徴をマタイは「柔和な方
で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と伝えています。これはゼカリヤ
書9:9からの引用です。そこには「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく
、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。ここでマタイは「
高ぶることなく」を「柔和な方で」と変えています。「柔和」という言葉はマタイがイエ
ス様に対して好んで使う言葉です。有名な「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私の
ところに来なさい。」で始まるマタイ11章の終わりのところでは、イエス様は自分のこと
を「わたしは柔和で謙遜なもの」と表現されています。柔和と謙遜が結ばれて出てきます
から、ザカリヤの「高ぶることなく」を「「柔和な方で」と変えたことは大きな違いはな
いと思われます。
 今日の使徒書を見るとこのようなイエス様の姿がよく示されています。「自分を無にし
て、僕の身分になり」とその謙遜さを示し、「へりくだって、死に至るまで、それも十字
架の死に至るまで従順でした」とその従順さを賛美しています。
 
ここには人間の考えを越えた神さまのみこころ、その御心に従順なイエス様が示されて
います。それはこの世の栄光の姿ではなく、神さまとの間を開くための死の姿です。今日
の十字架への歩みの中で、エルサレム入城の出来事から、わたしたちは根本的な救いを、
この世での苦しみからの解放と考えがちですが、真の救いは神様との間が開かれること、
すなわち神さまの命に生かされること、永遠の命に生かされることであることに心を向け
受け入れましょう。この世の痛みが取り除かれることを求めることをイエス様、それゆえ
神さまも否定されていません。彼らがホサナと叫ぶことを受け入れてくださったのですか
ら。しかし同時にそれ以上に根本なことがること、それはイエス様が十字架の死を受け入
れられたことによって私たちに与えられたもの、そのことが今私たちが心を向け、受け入
れる一番のことであることを今日の日課から覚えましょう。