2023年3月5日「世を愛される神」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記12:1~4a、ローマ4:1~5、13~17、ヨハネ3:1~17
  今日は宇部教会創立70周年記念礼拝です。1952年9月にケネス・デ
ール宣教師により聖書研究会が始まりました。また翌年1953年3月1日に
日曜礼拝が行われ、この日を宇部教会の創立記念日としました。
 この記念礼拝の説教を頼まれたとき、それにふさわしい聖書の箇所を
探そうと思いました。そして探す前に、この日に与えられている聖書の
日課を見てみましたが、わたしは少し感動しました。それは宇部教会の
創立記念日にふさわしいと思える聖書の箇所であったからです。この日
課から宇部教会に対する神さまのみこころを聞いてみましょう。
 旧約聖書の箇所は有名なアブラハムの召命の出来事です。神様がアブ
ラハムを呼び出され、ここから具体的な人類との関わりが始まります。
このアブラハムをわたしが示す地に行きなさいと呼び出されたとき、神
様は彼を祝福し、大いなる国民とすると約束されました。また祝福の源
になるとも約束されました。この箇所が今日宇部教会の創立記念日に与
えられているということは、宇部教会を呼び寄せ、立たせてくださった
ときのこの祝福が宇部教会に対する神様の約束であると考えてもいいの
ではないかと思います。
 そして今日の使徒書の日課はこのアブラハムの出来事を受けたもので
す。行いではなく、神様を信じて、そのことによってアブラハムは義と
されたのであること、さらに神様の約束は律法に基づいてではなく、信
仰による義に基づいてなされことが記されています。アブラハムの信仰
に従う者もこの約束にあずかれると言い、信仰の歩みが強調されている
のです。
 
 宇部教会の歩みを少し見てみましょう。1953年に礼拝が始まって翌年
神学校を出たばかりの河田稔牧師が赴任してきます。そして驚くべきこ
とに、翌年1955年に会堂と牧師館が現在の地に建築されます。アウガス
タナ派という宣教団体の支援によるものですが、300坪という広い土地と
また礼拝堂、牧師館が与えられたのです。この時期の宣教の成果はすさ
まじいものがあります。この会堂の献堂式の時たくさんの人たちが入口
に並んでいました。また牧師館の前に集った人々の写真には80人余りの
人が写っています。その翌年には教会学校、高校生会、婦人会、壮年会
開講となっています。どんなに活発であったかが想像されます。また
1961年には小羽山の納骨堂が建てられ、更にその年の12月には今の会堂

が新たに建てられたのです。旧会堂が建てられて6年で新会堂が建てられ
たのです。その結果1965年に1種教会となりました。1種教会は牧師給を
自分たちの献金で用意しなければなりませんので、このあたりから経済
的な負担も生じ始めたと思います。その後、何人かの牧師が赴任してき
ました。その時々活発な時もそうでないときもあったと思います。そし
て大きなことは牧師が派遣されないときが何回かありました。近くの教
会の牧師が兼任したり、説教応援や、引退牧師の牧会委嘱によって歩ん
できました。そこには牧師数の減少や、宇部教会の経済的な面の原因も
あったと思います。そして現在は20人前後の礼拝出席者となっています
。詳しくはこの式文に載せられている教会年表を見てください。
 ここからが大切なところですが、わたしは宇部教会は始めは盛んでよ
かったが、今は人数が少なくなって寂しい、だから頑張ろうということ
が言いたいのではありません。わたしたちは神様の祝福の約束の中を、
いつの時も、信仰によって歩んでいるのだということが言いたいのです
。先日も話しましたが、アブラハムの信仰はいつも順調であったわけで
はありません。子供がなかなか与えられないとき、動揺しながら歩みま
した。それを神様は力付けられて、アブラハムは育てられていったので
す。宇部教会はその歩みにおいてアブラハムのようではなかったかもし
れません。初めに約束されたものが十分に与えられたように見えます。
しかし、今は、目に見える形ではそうではありません。アブラハムに子
供が与えられなかった時の状態かもしれません。確かに人間は見えると
ころで揺らぐことがあります。しかし大切なことは神様の約束を信じて
歩み続けることです。約束の内に立って歩むことです。それを今日の使
徒書は教えてくれていると思います。
 では、宇部教会に与えられた祝福の内容は何であったでしょうか。ア
ブラハム対しては大いなる国民とするということと祝福の源となるとい
うことでした。わたしたちにもこの祝福の約束が与えられていると思い
ます。大いなる国民にするということは旧約の世界では具体的なもの、
人数が増えるということを表わしています。わたしたちに対してもそれ
もあると思います。しかし、大切なことはその内容であると思います。
量よりも質と言えるかもしれません。そして新約で言う祝福の内容は今
日の福音書の日課「神はこの世を愛された」ということであると思いま
す。この「神がこの世を愛された」ということがこの宇部教会の群れに
も約束として与えられ、かつ宇部教会がこの祝福の源となることが約束

として与えられていることだと考えられます。わたしたちはこの約束を
どのような時にも信じてかつ約束に導かれて歩んでいるのです。そして
今日の福音書の日課から見るとそこになくてはならないものがあります
。それは「新しく生まれる」ということです。ニコデモはイエス様がし
るしをされたことにうたれてやってきました。そのニコデモに対してイ
エス様はすぐ新しく生まれなければならないと言われました。わたした
ちは見えるしるしに振り回されるのではなく、イエス様によって新しく
生まれること、そのことを受け取って祝福への信仰のもとに外的にいい
ときも悪く思えるときも歩むことが大切でしょう。