礼拝説教
ミカ4:1~5、エフェソ2:13~18、ヨハネ15:9~12
今日の旧約聖書の日課の中には平和の姿が「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いち
じくの木の下に座り、脅かすものは何もない」と示されています。収穫があっても奪い奪
われた時代ですから、平安に自分が収穫したものが食べられることは平和の象徴であった
でしょう。ただこれは完全な姿を示しているわけではありません。なぜなら自分の収穫す
るものを持っていない人たちもいるからです。だからこの平和にはすべての人が自分の収
穫するべき土地を持っていることの前提が必要です。現代で言うなら皆が働く職場があっ
て、そこで得た収入で家族も含めて十分な生活ができると言ったものでしょうか。
使徒書の日課には「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と述べて、キリス
トこそがわたしたちの平和であることが強調され、また示されています。それがどのよう
なことでかが、「二つのものを一つにし」と「ご自分の肉において敵意という隔ての壁を
取り壊し」と言いさらに3つ目として「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と示
されています。そしてそのことをさらに説明するものとして「双方をご自分において一人
の新しい人に造り上げて平和を実現し」さらに「十字架を通して、両者を一つの体として
神と和解させ」さらに「十字架によって敵意を滅ぼされました」と説明しています。二つ
のものを一つにするとは、イエス様において一人の新しい人に造り上げられることを通し
てであることがわかります。そして十字架によって神さまと和解し、また敵意を滅ぼされ
たことが示されています。ここのところは後でもう少し見てみたいと思います。
現在は平和に関してどのような状況かというと、第2次世界大戦後最も危険な状況と言
っていいかもしれません。ロシアがウクライナに侵攻してもう6ヶ月目に入りました。そ
の間の状況は、わたしたちには信じられないような悲惨な現実が突き付けられています。
現代においても虐殺や暴力の行為が存在していること、現実にミサイルや砲弾で建物が破
壊されているのを目の当たりにしています。またペロシ米国下院議長の台湾訪問をきっか
けに中国が台湾囲む6海域で軍事演習を実行し、緊張感が高まっています。考えればイラ
クに大量破壊兵器が存在するとし、フセインイラク大統領を倒すために、米国を中心とし
た西欧諸国が強力な軍事力を持って戦争を仕掛けて以来、ビンラディンのような存在を生
み出し、ニューヨークツインタワーの攻撃、またISを生み出し中近東の混乱、更にアフガ
ニスタンの混乱を生み出しています。力が力を生み出し、争いの、憎しみや暴力の絶えな
い世界となっています。
経済においても、貧富の差を生み出し、皆が平和に働いて食を得ているという状況では
ないでしょう。わずかな人たちが富を独占し、多くの飢えている人たちが存在しています
。富と便利さを求める貪欲さによって地球の環境が破壊されて行きつつあります。地球の
温暖化は洪水や森林火災を生み出しています。これらは平和を作り出しているとは言えな
い状況でしょう。
私たちは平和のために何をすれば、どう生きればいいのでしょうか。それは聖書から聴
けば敵意という隔ての壁を打ち壊すことではないかと思います。そしてさらに大切なこと
は敵意という隔ての壁はもう打ち破られ、取り壊されているという事実です。それが先ほ
ど挙げたエフェソ書の箇所に示されているのです。イエス様によって、その肉を十字架に
かけられることによって、憎しみ、敵意、隔ての壁は取り去られているのです。そのこと
は現実にイエス様によって成り立っているのです。
私たちの前には、憎しみや敵意、誇りや自尊心、自分を豊かにしたい世界が目に見えて
存在しています。わたしたちを圧倒してしまうほどです。一方、確かに、敵意を打ち破ら
れた世界、しかも自分の肉を十字架にかけることによって、敵意、隔ての壁、誇りを打ち
破られた世界も確かに存在しているのです。2000年も前から、確かにイエス様によって
打ち立てられたのです。平和を考えるとき、いえ平和に生きるとき、どちらの上に立って
生きるかが問われ、また大切なことです。
イエス様はこの敵意を打ち破り、隔ての壁を取り壊して、その中に生きる姿を愛という
言葉で表現されました。愛に生きるという言葉で表現されました。「父がわたしを愛され
たように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」イエス様
の愛の内にとどまり、生きることを示されました。そして今日の日課を見ると、愛の内に
生きることは喜びに満たされるということです。喜びに満たされて生きることが出来るの
です。わたしたちは愛には喜びが伴うことを知っています。親子の愛、友情、男女の愛に
は確かに喜びが伴っています。わたしたちはそのことをよく知っています。それならば、
神様の愛、イエス様によって示された愛は、なおさら深い喜びを伴っているでしょう。愛
に生きることは喜びに満たされて生きることなのです。「わたしがあなたがたを愛したよ
うに、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とイエス様は勧めておられま
す。掟という言葉を使われました。掟はふつう私たちを縛るもので、私たちを苦しめるも
のです。しかし愛の掟は、わたしたちに喜びが伴うものなのだとイエス様は前置きして、
そしてこの互いに愛し合うという掟を示されたのです。
愛は何度も言っていますが、相手の存在自体を受け入れ大切に思い、大切にするもので
す。目の前にある敵意や隔ての壁に目を奪われるのではなく、わたしたちの前に、わたし
たちの足もとに、すでに作り出してくださった、イエス様によってわたしたちのもとに存
在するようになった、愛によって生きてゆきましょう。