2022年7月10日「寄り道のお手本」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:ルカ10章25-37節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  今朝は、『善いサマリア人』と小見出しのついた箇所を共に聞きました。もはや説明の必要
のないくらい、教会では親しまれ、愛されてきた箇所だと思います。『善いサマリア人』という
小見出し、それは、“あの”サマリア人の中にもごく稀に善い人がいるのだ、ということを言いた
いのでは決してありません。サマリア人とユダヤ人の間には、歴史的な軋轢がありました。先々
週の日課では、イエスさま一行がサマリア人の住まう村に入られた場面がありましたが、サマリ
ア人たちはイエスさまを歓迎しませんでした。およそ900年前、サマリア人もユダヤ人も、も
ともとは一つの群れであり、同じ神様を信仰する仲間でした。しかしソロモン王の死後、王国は
南北の二つに分裂し、サマリア人の住まう地域は北王国の中心となりました。彼らは次第に、土
着の信仰、バアル信仰に染まってゆきます。もともとは北も南の同じ群れであったのに、国とし
て分裂し、また宗教的な相違が少しずつ、長い年月をかけて深まってゆきました。そして北王国
は紀元前722年、アッシリアの攻撃を受けて滅ぼされてしまい、北王国には異国の人々(異邦人
)が次々と連れて来られたのです。今朝共に聞いたサマリア人とはその人々の子孫であり、王国の
滅亡から700年後が今朝共に聞いた聖書の場面というわけです。サマリア人も、ユダヤ人も、
自分たちこそが神様の意思を受け継ぐ正統な後継者だと自負していましたから、自分たちとは違
う考えを受け入れることができませんでした。ですから、サマリア人にとってユダヤ人は相容れ
ない人たちであり、ユダヤ人にとってのサマリア人も受け入れ難い人たちであったのです。サマ
リア人とユダヤ人の間には、言葉では言い表すことのできない憎しみがありました。今朝の日課
は、この互いの憎しみが根底にあることを十分に理解した上で共に聞いてゆきたいと思うのです

  ある人が暴漢に襲われ、道で倒れていました。彼はエルサレムからエリコに下ろうとしてい
たとありますから、恐らくユダヤ人であったでしょう。エルサレムの神殿に行った帰りだったか
も知れません。エルサレムからエリコまで20キロほど、帰り道の途中で彼は暴漢に襲われてし
まい、瀕死の重傷を負うのです。しかしここはまだエルサレムから近く。誰か彼を助けてくれる
仲間が現れるかも知れません。最初に通りかかったのは、祭司でした。彼は倒れているその人を
見て、道の反対側を通って行ってしまいました。気付かなかったのではありません。気付いたか
ら、道の反対側を通ったのです。もしかしたら彼には急ぎの用事があったのかも知れない。祭司
だから、礼拝に向かう途中だったのかも知れない。自分を待っている人がいるから、今ここで彼
に関わるわけにはいかなかったのかも知れない。祭司が立ち去ると、レビ人が通りかかりました
。レビ人というのは、神殿において働いていた人たちです。神殿には様々な聖具があります。教
会にも、聖壇や、洗礼盤といった聖具がありますが、エルサレム神殿にもそれら聖具が数多くあ
りました。それらの管理を行っていたのがレビ人たちでした。祭司と同じく、倒れている彼の同
胞です。同じ神様を信じ、同じところで礼拝する仲間でした。しかし、レビ人も、倒れている人
の反対側を通って去って行きました。祭司、レビ人は彼を助けてくれませんでした。倒れている
人にとって、自分を助けてくれると期待した人たちは、通り過ぎて行ってしまったのです。意識
があったかは分かりません。助けを求めることができたかもわかりませんが、助けてくれると思
った人たちが助けてくれなかったのです。聖書はとても残酷に、そのことを伝えます。

  祭司、レビ人が通り過ぎて行った後、あるサマリア人が彼のそばを通りかかりました。サマ
リア人には、目的地がありました。彼は旅をしていたのです。ですから、倒れている人を助ける
ために、ここを通りかかったわけではないのです。しかしサマリア人は、倒れている人を見つけ
ると、憐れに思い、駆け寄ります。そして傷口に油とぶどう酒を注ぎ、手当をしました。更に自
分の乗っていたロバに彼を乗せてやり、宿屋に運んだのです。そしてその日、付きっきりで彼の
介抱をしたのです。もしかしたら、彼にはその日行かなければならない場所があったかも知れな
い。しかし、目の前に倒れている人を放って置くことはできなかったのです。そして翌日、彼の
介抱を宿屋の主人に頼むと、銀貨を差し出します。『このお金で、彼を助けてください。』本当
なら、昨日行かなければならなかった場所へ、彼は一日遅れで旅立つのです。どうしても行かな
ければならない場所があったのでしょう。だから彼は言うのです。「費用がもっとかかったら、
帰りがけに払います。」必ず戻って来るから、彼を助けて欲しいと願うのです。そして、彼は旅
立って行きました。
  倒れていた彼が目を覚ました時、どう思ったでしょうか。サマリア人の中にも善い人がいる
んだと、回心したでしょうか。それとも、なんでサマリア人なんかに助けられなければならない
のかと憤ったでしょうか。この話を聞いた律法の専門家は、誰が倒れていた人の隣人であったか
と問われ、「その人を助けた人です。」と答えます。決して、『サマリア人です。』とは答えな
いのです。イエスさまの語られたこの譬えは、サマリア人にも善い人がいるから仲良くしなさい
と、そういうことを言っているのではないでしょう。そうではなくて、あなたを助けたのは、あ
なたが『あの人とは仲良くできない』とか、『あの人は私のことをちっとも理解してくれない』
と思っているその人だということではないでしょうか。そして、それこそまさに、イエスさまの
歩まれた道のりなのではないでしょうか。たった一人で、誰にも理解されず、誰にも歓迎されず
、十字架への道を歩んで行かれたイエスさまこそ、倒れている私を抱え上げ、傷を癒してくれた
その人なのではないでしょうか。
  今日、私たちはそれぞれの家を出て、同じ目的地にたどり着きました。毎週、当たり前のよ
うにこうして集い、共に御言葉を聞いていますが、当たり前のことなど本当は何一つないのかも
知れません。今日ここには、教会に行きたくない、そんな気持ちになった人もいるかも知れませ
ん。体が痛くて、とても教会にたどり着けない、礼拝に出られないと思った人がいるかも知れま
せん。お休みの日の午前中、他に行きたいところがあったかも知れません。それでも私たちがこ
うして集い、ライブ配信を通して、家庭礼拝を通して共に同じ御言葉に与ることができるのは、
イエスさまが私たち一人ひとりの傷を手当てして、その体を担いで、ここに連れて来てくれたか
らなのではないでしょうか。イエスさまは言います。「行って、あなたも同じようにしなさい
。」それこそが、永遠の命へ至る道なのだから。それは真っ直ぐな道のりではきっとないのでし
ょう。曲がりくねった、勾配のある、そういう道のりなのでしょう。時には、予期せぬ寄り道を
しなければならない、そういう道のりなのでしょう。寄り道だと思うそこに、神様は共にいてく
ださいます。私たちの体を通して、働きを通して、この世界に神の御業が示されてゆきます。一
人ひとりの歩みの中に、神様の御心が現されますように。そして、今日もここから、御言葉と共
に歩みだしてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。