礼拝説教
■ ルカ福音書9:51-56
「ああ主のひとみ、眼差しよ(教団243)」の讃美歌は、和製となります。主の眼差
しの中に導かれた牧師が、半生を振り返って作詞したものです。日課にも、主の
瞳が「向かう、振り向く(51,55)」という言葉で表されています。主ご自身の向か
う先は、「全人類の救い」としてのエルサレム(51)でした。しかし、歩みの中で近
しい弟子たちの心が不安や不穏に満ちるなら、そこに瞳を向けるのです。主の思
いが、今の私に向かうことを聞きましょう。
ユダヤとサマリアの感情の行き違いは、主の時代明らかなものとなっていまし
た。主の時代から700年前の事象が契機の出来事は、主の時代には修復不可能な
ものとなっていました。その一つが「礼拝の場」でした。サマリア人たちの聖地は
ゲリジム山(ヨハネ4:20)、しかしユダヤ人たちにはエルサレムが聖地でした。53
節でサマリア人たちが主の一行を歓迎しなかったのは、ここにあります。自らの
聖地が、蔑ろにされたと思ったのです。
サマリア人のその様子を見た弟子のヤコブとヨハネは、過激なことを言います
。「天から火を…(54)」の部分です。要は、自身の手で焼き討ちを始めるか、滅び
を神の奇跡に委ねる思いだったのでしょう。主はその二人を振り向いて戒められ
ます。主の思いは、エルサレム、サマリア人、二人の弟子それぞれに注がれてい
ます。一方で、サマリア人、二人の弟子は自身の手元や思いにのみ、気持ちを左
右させられています。これが人の限界です。
この二人の弟子には「雷の子(マルコ3:17)」というあだ名がありました。この日
に似た出来事の前科があったのかもしれません。しかしこのあだ名は定着しませ
んでした。ヤコブはやがて最初の殉教者、ヨハネは愛の使徒として、手紙をいく
つも残すのです。主の眼差しを受けるものはその思いや生き方が変えられるので
す。この認識の中で私たちは日々、過ごしたいと思います。その中で他者に向か
う眼差しも、整えられるものでしょう。