礼拝説教
箴言8:1-4,22-31.ローマの信徒への手紙5:1-5.ヨハネによる福音書16:12-15
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今朝、私たちは特別な礼拝を迎えています。初めて、宇部教会と下関教会をネットで繋ぎ、
同じ御言葉に与っています。ルーテル教会に限らず多くの教会が牧師数の減少という課題と向き
合っている中で、私たちが諦めることのないことを、諦める必要のないことを、今日は共に経験
しているのだと思います。三位一体主日に与えられた出来事-宇部教会に集う人々、下関教会に
集う人々、そしてオンライン配信を通して共に集う人々が一つとされる幸いに、主に感謝したい
と思います。
今朝の主日は三位一体主日です。三位一体という言葉は、もはやキリスト教特有のものでは
ありません。政治の世界でも三位一体の改革という言葉が聞こえてくることがあります。三つの
もの(こと)を連動させて変革してゆくこと、しかし教会で聞こえてくる三位一体という言葉は、
果たしてその意味で同じでしょうか。教会における三位一体の理解とは、教会を教会として位置
付ける上で大変重要な意味を持っています。キリスト教は世界中にたくさんの教派がありますが
、三位一体の教理を採用しない教会はありません。三位一体を否定するならば、それはキリスト
教会とは言えないからです。このことは、ほとんど全ての教会が採用している使徒信条、ニケア
信条、アタナシウス信条のどれにも三位一体の理解が含まれていることからも分かります。ルー
テル教会の一致信条書にも、主要信条としてこの三つの信条が記載されています。しかし教派間
において部分での解釈に差異はあります。たとえば、フィリオクエという問題があります。聖霊
は父から出るのか、子から出るのか、父と子から出るのか。フィリオクエとは『また、子より』
という意味の言葉ですが、聖霊は父と子から出るという立場を取るのが我々西方に位置する教会
の立場です。聖霊は父から出て、子を通して派遣されるというのが東方に位置する教会の立場で
す。9世紀頃から現在に至るまで、1000年以上この問題は解決を見ない問題ですが、だから
と言ってお互いが『あなたたちは教会ではない』と言わないのは、三位一体の神をそれぞれが認
め、そのことを承認し合っているからです。揉め事を生むぐらいなら、どちらでも良いじゃない
か、とは言えない問題があります。現在、聖書を読む会で使徒言行録を学んでいますが、最初期
の弟子たちは何度も祭司長やサドカイ派の人々に捕らえられ、裁判にかけられます。しかし彼ら
が語ることの本筋は一つです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録
5:29)」人間と言っているのは、自分たちを裁判にかけ、口を閉ざさせようとする祭司長やサ
ドカイ派の人々、意見の合わない人々だけではないでしょう。そこには自らも含めて、人間に過
ぎない私たちが、神の御心、神の宣教を推し量ることなどできないのだという視点です。ですか
ら、大事なことは三位一体を私たちがどう納得し、どう納得させるかではありません。三位一体
の神が、私たちに何を語り、何をなさしめようとしているのか、このことの方がよっぽど大事な
のではないでしょうか。全ての部分に於いて同じでなくとも、私たちは力を合わせてゆくことが
出来る。根本的な部分、父なる神、子なる神、聖霊なる神に委ねてゆこうという部分では、私た
ちはどこまでも力を合わせてゆくことが出来るはずです。だからこそ、今こそ聖霊が豊かに働い
て、世界で起きている悲劇、惨劇を終息へと向かわせてほしいと祈り求めることを私たちは止め
ないのです。
本日与えられた福音書日課はヨハネ福音書16章12節からでした。イエスさまは言います
。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」言って
おきたいことというのは、これからイエスさまが十字架にお掛かりになり、死ななければならな
いということです。そのことを弟子たちはまだ理解することができません。理解できないと言う
と弟子の無理解が強調されてしまいますが、イエスさまが言っているのは『背負うことが出来な
い』という意味です。イエスさまが十字架にお掛かりになる出来事を、弟子たちは背負うことが
出来ない。そう聞くと、その通りだと思わされます。神の子が人間の罪を贖い、十字架にお掛か
りになる。このことを、私たちは背負うことが出来るでしょうか。しかし、その時が来れば、弟
子たちがこの十字架を背負うことができるようになる。それが聖霊降臨です。先週私たちは聖霊
降臨の出来事を共に聞きましたが、聖霊降臨の出来事は2000年前一度きりの出来事ではない
のです。聖霊は今も私たちに降り、働いてくださるからこそ、主イエス・キリストの十字架を私
たちが理解し、背負うことができるのです。弟子たちに降った聖霊が真理をことごとく悟らせ、
主イエス・キリストの足跡を、語ったみ言葉を伝えてゆきました。彼らが伝え、託していったの
は父なる神がこの世界を創られたというこの世界の真実、そして子なる神は初めからその場にあ
って、「光あれ」と神が言われたその言葉こそがイエスさまそのものだということ、そして旧約
時代、預言者を通してこの世界に現わされた聖霊の働きが今や私たちにも及んでいるのだという
神の助け。これらのことを弟子たちは伝えて行ったのです。ですから、三位一体というのは単な
る教理や、神学的な事柄ではなくて、キリスト教の根幹を為す土台、私たちのとても近くに在る
存在なのです。
今朝与えられておりました旧約日課、箴言8章。そこでは、知恵が人格を持つ者として語られ
ています。知恵が語るのは、主なる神が初めに造られた存在があること、まだこの世界に地も山
も海も何も無かった時から、その存在はあったことが語られています。三位一体というのは、新
約聖書の時代に新しく生みだされたものではないのです。旧約聖書の初め、天地万物が造られる
前からあったのです。創世記を見てみると、初めに神が言葉によってこの世界をお創りになった
ことが分かります。そして神は土塊から人間を形づくり、命の息を吹き入れられました。先週聞
いたかもしれませんが、息と霊は同一の言葉です。人間には始めから神の霊が吹き入れられてい
た。神の霊と共にある存在であった。しかし、神と等しくなろうとした末に、人間は罪ある者と
なってしまった。罪ある者というのは、神に背こうとする存在であるということです。神様から
離れて行こうとする人間を、再び神様と和解させるにはどうすれば良いか、そこで神様は神の子
であるイエスさまをこの世界に送り、人間の罪を贖わせ、再び神様と人間との結びつきを回復さ
れようとなされた。人間の内にもともと在った聖霊の力を再び生き生きとした力とし、神の言葉
を理解することが出来るよう励ましてくださる存在とさせてくださったのです。
パウロはこれらを励ましの言葉として後代に伝えました。本日の第二日課、ローマの信徒への
手紙5章。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエ
ス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によ
って導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」信仰によって義とされると
いうのは、神様が私たちに与えてくださったイエスさまの歩みを、聖霊の助けによって私たちが
受け止め、背負うことが出来るようにしてくださるということです。私たちの能力によって義、
正しい者とされるのではありません。聖霊の助けによって、私たちは義とされているのです。パ
ウロは言葉を続けます。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っている
のです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺
くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ
ているからです。」苦難、忍耐、練達の根底にあるのは、希望であり、それは私たちの心に注が
れる神の愛、主イエス・キリスト恵み、聖霊の働きそのものです。私たちからこれらの希望が奪
い取られることはありません。私たちを励まし、動かす、三位一体の神への希望に委ねて、新し
く始まる一週間を歩み出してまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。