礼拝説教
聖書箇所:ヨハネ14:23-29
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
教会では聖書を読む会が再開されました。その中で、使徒言行録を読み始めたところです。聖書を読む会の中でも触れましたが、福音書というのは神の子であるイエスさまが地上でどのように働いたかを伝える書物で、使徒言行録やそれに続く書物というのは、復活後のイエスさまが天に上げられた後、弟子たちを通して聖霊なる神が働いたことを伝える書物です。福音書に記される、イエスさまが地上を歩まれた時。そこには共に歩んだ者たちがいました。弟子や女性たちです。彼ら、彼女らは、イエスさまが十字架に掛けられた時、ある者は逃げ去り、ある者は隠れ、ある者は悲しみに打ちひしがれていました。しかし今朝の日課にあるように、イエスさまは十字架に掛けられる直前、弟子たちに約束を残されていました。それは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(27節)というものでした。平和とは、どういうものでしょうか。一言で言い表すことはできないと思いますが、争いの無い状態と言っても良いかも知れません。人と人とが憎しみ合うところに、私たちは平和を見出すことができません。では、イエスさまは平和を残すと言っておきながら、その後に起きた出来事は平和な出来事だったでしょうか。そうではありませんでした。イエスさまに敵対する者が大勢、彼ら、彼女らを取り囲んだのです。イエスさまの残した平和の約束を信じる者たちは、その約束を信じるがゆえに捕らえられ、痛めつけられるという状況にあったのです。
聖書の言葉には、平和と、平和にとても近いもう一つの言葉があることにお気づきでしょう。『平安』です。新共同訳の新約聖書に出てくる言葉は全て平和と訳されていますが、新約聖書の原典であるギリシャ語では平和も、平安もどちらも『εἰρήνη(エイレーネ―)』と言う言葉が使われています。ここでは平和と平安、その意味は同一ではありません。冒頭申し上げました通り、平和とは争いの無い状態、社会が落ち着いている状態を表します。イエスさまの語られる平和『εἰρήνη』がこのことだけを表す言葉であるならば、この世界に今も起きている争いはなんだというのでしょうか。捕らえられ痛めつけられた弟子たちはなんだったというのでしょうか。そこは神さまの力の及ばない領域なのでしょうか。そうではありません。イエスさまの語る、『εἰρήνη』とは、戦争や紛争の無い状態を表す言葉ではないのです。それはまさに平安と言うべき言葉です。このことをマルティン・ルターは以下のように説明しています。
『ヨハネ福音書14章27節で主が与えると約束されている平和と、この世の平和とは何が違うだろうか。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起こした原因が消滅するという平安である。しかし主が与える平安とはこれとは全く逆である。外面的には疫病や争い、貧困、罪、死やそれに悪魔といったあらゆるものが我々を揺さぶっても決して無くならない平和である。我々が生きている限り、それら無いほうが良いと思えるものは絶えず我々につきまとう。それにもかかわらず、我々の内面には慰めや励ましがあるのだ。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、もはや外面的な不幸でも我々の心を縛ることができない。しかし、人間の理性が把握できるのはこの世が与える平和だけである。理性では、不幸や悪のあるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や悪がある限り、平和はあり得ないと考えるからだ。それゆえ、不幸や悪が身近にあるならば、心を落ち着かせる術を持たないのである。主は何らかの理由で私たちをそのような境遇に置くことがある。しかし忘れてはならない。主は我々を必ずや強めてくださる。我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えてくださるのだ。そのような平和を持つことができる者は、この世全体が怯えるような不幸や悪のあるところでも、喜びを失わず揺るがない安心をもっていられるのである。』
このルターの言葉を聞く時、ルター自身が大変苦しんだ過去を持つことを思い起こします。非常に熱心な修道士であったルターは、自らの罪が消えることのない現実に絶望しました。何度罪を告白しようとも、次から次へと湧き上がってくる罪に押しつぶされながら生きたのです。どこに平和があるのだ。どこにも平和はないのかと、日々苦しんだのです。その時、ルターが気付かされたのが神の本質は裁く神ではなく、恵みの神だということです。私たち人間がどれだけ鍛錬しようとも、神に一歩でも近づくことなどできやしないのです。しかし、神の方から一歩、私たちに近付いてくださっているのです。それこそがまさに十字架です。罪無き神の子が、罪人である私たち人間のために罪を一身に背負い、十字架上で贖ってくださった。一歩どころか私たちを抱き寄せることのできる距離にいつも神はいてくださるのです。私たちには、自らの罪を自らの功績で洗い流すことはできません。しかし、この罪を主イエス・キリストが贖ってくださった、このことを信じることのみによって私たちは救いへと至るのです。
今朝の日課に於いて、イエスさまは平和の約束だけでなく、もう一つの約束を残しておられます。聖霊の約束です。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」これから後、あなた方へ遣わされる聖霊がある。聖霊の働きによって、私たちの理解を超えて起こる出来事を悟ることができるようにしてくださる。聖霊は、私たちに語りかけ、同時に弁護者でもあるのです。これはどういうことでしょうか。聖霊が出来事を理解させてくださるというのは、私たちの身の回りに起きる出来事がどうイエスさまと関係があるのか、聖書のどの御言葉と関りがあるのかを私たちに悟らせてくださるということです。皆さんも経験があるのではないでしょうか。どうしても理解できなかった事柄が、ふとした瞬間、パッと謎が解けるように紐解かれる時が訪れることを。そういう出来事が積み重なって、私たちはイエスさまが本当に神の子で、私たちに物事を理解させる力を聖霊を通して与えてくださっているのだということを悟るのです。しかし、ふと気を緩めれば私たちは神さまを忘れて生きていってしまうのも本当ではないでしょうか。聖霊の働きというのは、そういう時、私たちを再び神さまの方へと向き直させる働きでもあるのです。𠮟咤激励を通して私たちを神様と結び合わせてくださるのです。それだけではありません。何度も罪を犯し、神さまに顔向けできるような状態でない私たちがいつの日か神さまと相まみえる時、聖霊が私たちを弁護してくださるのです。イエスさまの十字架によって私たちの罪を赦された神さまは、さらに私たちの弱さを認め、慰め、守り導く存在をも与えてくださっているのです。
以上、二つの約束を共に聞いてまいりましたが、これはどちらか一つではないのです。聖霊が働く時、そこには約束された平和も共にあるのです。私たちには平和も、導き手も与えられているのです。平和、聖霊、どちらも大きな言葉です。つい、私とは無関係と心のどこかで思ってしまいます。しかし、イエスさまは私たちにも聖霊を通して聖書の言葉を理解させ、イエスさまの与える平和を携えて生きよと語っておられるのです。主の平和が皆さんと共にありますように。この世界の隅々にまで、主の平和が行き渡りますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。