礼拝説教
使徒言行録9:1~6、ヨハネ黙示録5:11~14、ヨハネ21:1~19
ヨハネ福音書によると今日の日課は復活の主が弟子たちに3回目に顕われられた時のこととされています。ただ、2回復活の主が顕われた20章の出来事の後に、20:30節以下でまとめのような句がおかれていますし、派遣の聖霊を受けた後、21章のガリラヤの出来事は流れ的につながりにくいので、福音書記者のヨハネは、または他の人が違う伝承から、大切な伝えたいこととして、福音書に加えたと思われます。その大切なことを聖書から聞いてみましょう。
場面は20章のエルサレムから、ガリラヤに移ります。マルコ福音書によれば復活の主はガリラヤに行かれたということもありますので、復活の出来事がガリラヤで生じることはおかしくありません。7人の弟子たちが挙げられていますが、彼らはガリラヤ湖湖畔にいて、ペトロの「わたしは漁に行く」という言葉に促されて、漁に出ます。しかし魚は獲れませんでした。夜が明けたころに復活のイエス様が岸に立っておられました。弟子たちはそれがエス様とは気付いていません。後に200ペギス離れていたとありますから大体90メートルぐらい離れています。イエス様の方から声をかけられます。「子たちよ、何か食べるものがあるか」と。弟子たちが「ありません」と答えると、イエス様は「船の右側に網を打ちなさい。」と言われます。そこで弟子たちはそうするのです。この段階ではまだ弟子たちは復活の主であると理解していません。でも不思議とその言葉に促されて網を打つとおびただしい魚が獲れました。あまりにも大いいので魚を船に上げることが出来なかったので、陸まで網を引いたまま行きました。
この時重要なことが生じました。イエス様の愛しておられた弟子がペトロに「主だ」と言いました。ペトロは復活の主だとわかった時、自分が裸同然であったので上着を着、しかも湖に飛び込みました。この出来事を見るとき、全く同一ではありませんが、アダムとエバが罪を犯した後のことを思い浮かべます。禁止されていた木の実を食べたとき、彼らは自分たちが裸であるのに気付き、イチジクの葉で腰を覆うものとして隠したとあります。しかも神様が園に現れられた時隠れたのです。ペトロのしたことは見ると、この創世記の出来事を思い浮かべてしまいます。ペトロが湖に飛び込んだのは真っ先にイエス様のところに行くためであったとも考えられますが、そうであったら福音書はイエス様のところに駆けつけるペトロのことを表現したでしょう。しかしそれがないのは湖に飛び込んだのは恥ずかしくてそれを隠すためであった。あのアダムとエバが隠れたことに通じていると思います。
イエス様が陸に食事を用意していてくださって弟子たちは復活のイエス様と一緒に食事をします。この時弟子たちはそこにおられるのが復活のイエス様だと、聞かなくてもわかっていました。そしてその後、ペトロとの関係において重要なことが生じます。ペトロの心の中にはどのようなものがあったでしょうか。一般的にユダヤ人は旧約以来神さまを肉の目で見るなら死ぬと思っていました。それは全くの聖なる方に対し、罪の存在だからです。そのような理解での深い所の罪意識はあったでしょう。それと同時に、ペトロのことを想像するともう一つの心の中に深い闇というかマイナスな面があったと思われます。ペトロはイエス様の召しに対して家族も家も仕事も捨てて従っていきました。そこには誇りがあったと思います。その誇りはいろいろなところに表われています。一番表れているのは、イエス様が最後の食事の時、皆が自分につまずくと言われたとき、ペトロは皆がイエス様を捨てても自分は絶対にそのようなことはないと言ったところに表われています。自分への信頼、自信がそこにはあります。しかし、イエス様が捕まえられて大祭司のところに連れていかれたとき、ペトロはイエス様がいわれたように3度イエス様を知らないと言ってしまいました。ある福音書によればその時イエス様と目があったともあります。この出来事はペトロの心に深い傷となって影を落としていたでしょう。私たちは人生の中で、あああんな失敗をしたということがあるのではないでしょうか。取り返しのできないこと、あれがなければ心は晴れやかになるのにというようなことです。ペトロの中に、復活の主に出会ったという喜びと同時にこの事が痛みとして深いところにきっと存在していたでしょう。イエス様に顔向けできないという思いです。
イエス様はペトロに語り掛けます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」と。イエス様は「この人たち以上に」と言われましたが、比較級で人に尋ねられることはないと思います。むしろ、ペトロが皆が捨てても自分はついていきますという言葉、こころをそこに表されているでしょう。それに対して、ペトロはもう自分はイエス様を愛していると、また自分はイエス様を愛すると大手を振って言えません。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。次からの質問にもこのように答えるペトロは、明らかにイエス様の十字架前の時の姿と違っています。自分はイエス様を愛している。愛するといった、自分が主体となった、自分の意志に重きを置いた言葉と違っており、自分の心の中に確かにイエス様を愛しているものがある。そのことをイエス様は知っていてくださると、このようにイエス様の側に重きを置いたような答えとなっています。そしてこの時イエス様は愛するという言葉をアガパオ-というアガペーの愛、神様の愛の言葉で聞かれているのに、ペトロは人と人との愛フィレオーという友愛を表わす言葉で答えています。この当時の人々の会話でこの違いをあまり強調しなくてもいいという学者もいますが、後で述べる3回目の時のことを思えば、やはり違いを意識してもいいのではと思われます。このように答えたペトロにイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と働きへの任命の言葉を言われます。2回目も同じように言われ、同じような答えがあります。3回目もイエス様は言われました。この3回言われたことは明らかにペトロが3回イエス様を知らないと言ったことを意識されていると思います。それは3回目も同じことを言われたイエス様に対してペトロは悲しくなったというところに表されていると思います。ペトロにそのことを意識させて、その後にも「わたしの羊を飼いなさい」と働きへと召しておられるのです。ペトロの心の底にあった失敗への後悔、暗い思いはこの悲しい思いの中でイエス様の働きへの召しの言葉で赦され、取り払われたことでしょう。実はこの3回目の時、イエス様はヒィレオーの友愛の愛の言葉で聞かれているのです。むろんイエス様はわたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさいとヨハネ福音書で言われたとき、アガペーの愛を使っておられますから、私たちがそのように愛することが大切であることを思ってはおられると思いますが、でもペトロのそのままのものを受け入れて、善しとして働きへと召されているのです。ペトロも歩みの中でアガペーの愛に生きる者とされたことでしょう。
先ほども言いましたように私たちの人生の中で、湖の中に飛び込みたいような出来事、あれがなかったらどんなにいいかという出来事があるのではないかと思います。そんなものはないと言われる方は幸せであると思いますが、多くはやはりあるのではと思います。そしてそれは私たちの歩みに暗い影を与えます。しかし今日の日課を見れば、それをイエス様のところに持っていけば、それを受け取り、赦し、癒してくださり、前を向いて生きることへと、また働きへと召し派遣してくださることがわかります。十字架と復活の主にはそのような力があることを今日の日課はわたしたちに伝えていると思います。