2022年3月27日「神の愛・兄と弟」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ヨシュア5:9~12、Ⅱコリント5:16~21、ルカ15:1~3,11b~32

 今日の福音書の日課は有名な放蕩息子のたとえ話です。放蕩息子と言うとやはり放蕩を尽くして帰ってきた弟が注目されます。しかし、今日の日課は兄のことも載っています。15章の1~3節が入っていますから、弟は罪人たち、兄はファリサイ派の人達を表しているでしょう。今日は「神の愛・兄と弟」と題しましたが、放蕩息子のたとえ話を見ると、ファリサイ派の人達を糾弾しているだけでなく、兄に対する諭すような父親の深い愛を思います。そこで「神の愛・兄と弟」と題しました。
 兄と弟を考えると、聖書の初めに出て来るカインとアベルの出来事を思い出します。神様はこの時放蕩息子の父親と違って、少し冷たく厳しいように思えます。弟アベルの献げものを顧みられ、カインの献げものを無視されたように思えます。そこでカインのアベルに対する嫉妬を生じさせ、カインは弟のアベルを殺してしまいます。神様がカインに対して、放蕩息子の兄のように相対しておられたら、嫉妬は生じたとしても、殺すまではしなかっただろうとも思えます。
 昔からここの解釈は色々あります。アベルの献げものは「肥えた」と言う表現があることから心からの献げもので、カインの献げものはそうではなかったから、神様の反応は当然であるという考え方がよくなされました。わたしたちには納得しやすい考え方です。しかし、わたしはそうではないと思っています。神様は自由に選ばれる方である、それに対してあれこれ言うことはできないと理解しています。そして最近もう少し気付いたことがあります。それはこの出来事は神様の意志ではなかったか。その意志は罪に陥った人間に、その罪を表に表させるためのものであったと言う理解です。面に表させることで、そこに事件が生じるが、しかしその問題性が表にあらわれて、それを神様が救いへと導かれるためではなかったかと思うのです。原罪が生じたけれど、その罪がそこに隠れたままでは、支配し続ける。その問題性を表すことによって、今日の使徒書でパウロが言っている「神と和解させていただきなさい」と言うことが意味を持ってくると思います。

 放蕩息子のたとえ話を見てみましょう。ここはやはり神様の愛がこの父親の姿に現されていて感動させられるところです。前半は人間が特に若い時、自分の思いのままに生きることによって、放蕩の生活に陥りやすいことが顕されています。そして苦しい時こそ、われに変えることが出来る事が示されています。そして中盤は弟に対する父親の愛が感動的に表現されています。弟息子が遠くに見えた時、父親はそうと気付いて、走り寄って弟息子を抱きしめます。この表現によって父親がどんなに弟息子の事を思っていたか、忍耐しながら待っていたかがよく分かります。そしてさらに弟息子が自分はもう息子と呼ばれる資格がないと言ったのを無視して、最上のもてなしをします。指輪を与えることで、息子であることを認めているのです。このたとえは神様がどんなにわたしたちを愛していてくださるかを伝えていて、わたしたちが何かに落ち込んでしまっても、神様は忍耐してそれを見ておられ、神様の所に帰ろうとすれば喜び迎えてくださることを伝えてくれます。いつでもどんな時でも神様のもとに帰れるのです。ロシアのプーチン氏でも、悔い改めれば神様のもとに帰れるのです。
 さて最後の部分は兄と父親の関係が示されています。その初めに、この兄が弟に対して嫉妬したことが出てきます。兄は父親のように弟を喜んで迎えることが出来ません。その背後には、兄は父親に認めてもらいたいと言うことがあると思います。父親のために一生懸命働いた。だから父親にその事を認めてもらいたいと言う思いです。兄の家での働きはそのような思いがそこにあったことを示しています。原罪の中にある人間が陥ることです。根本において父親の自分への愛、その事を信じていないのです。自分の行為によって、父親の愛、自分への評価が変わると思っているのです。ファリサイ派の人達の生き方と同じです。その兄息子に対しての父親の言葉も感動的です。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」兄息子は父親のもとにいて、父親の命の中を生きているのです。その幸いに兄息子は気付いていないのです。その事を父親は優しく諭します。ここにも父親の愛があります。ドイツの文豪ゲーテは確かファウストのなかだったと思いますが、ヨハネ福音書の「初めに言があった」と言う言葉を考えて、いや、「初めに行為があった」としましたが、キリスト教的に言えばわたしは「初めに愛があった」と言えると思います。その中での私たちの行為があるのだと思います。

 放蕩息子のたとえ話は、父親の深い愛、忍耐を持って待ち、そして迎え入れてくれる愛が示されていますが、この愛がとても大切だと思いますが、キリスト教の愛はさらに進んでいると思います。その愛は待っている愛だけではなく、命を与えて、わたしたちの問題を解決してくださる愛です。原罪があること、神様との間が開かれていないこと、神様の私たちへの愛、存在自体を愛していてくださることを心から信じることのできていない人間に、神様はさらに深い出来事、自らの独り子を与え、それだけではなくその命を十字架に架けてわたしたちの罪の贖いとしてくださったのです。その事によって原罪から解放して、神様と和解し、根本における神様の愛を信じて生きることが出来るようにしてくださったのです。今日の使徒書はその事を伝えています。神様はイエス様によってこの出来事を成し遂げてくださった。だから、その事を信仰でもって受け入れ、神様との和解のもとで生きるようにとパウロはわたしたちに伝えているのです。
 この受難節の時は、自らの罪を思い、その罪の重さ、暗さを知ると同時に、神様の深い愛を知り、受け取っていく時です。わたしたちの信仰の歩みに神様の祝福が豊かにありますように。