礼拝説教
申命記26:1~11、ローマ10:8b~13:2、ルカ4:1~13
いよいよ四旬節の期間に入りました。2日の水曜日から日曜日を除いた40日間を経て主の復活日を迎えます。この間イエス様の十字架の歩みを覚えるときですので、受難節、またレントと呼んでいます。その最初に与えられたのは荒れ野での悪魔によるイエス様への誘惑、試みでした。此の世での歩みの中での苦難のひとつは試みです。その試みに引きずり込まれた時、もっと深い苦難の歩みが続きます。ですから此の世の歩みにおいて試み、誘惑は苦難の重要な一つです。ですからイエス様はわたしたちを救う歩みの中で、この試みを受けられたのです。そして私たちの救いとなられるようにその試みに克たれたのです。この意味でイエス様の荒野で試みに会われた出来事が四旬節第1主日の日課として与えられています。今のロシアとウクライナの戦争の事を思う時、イエス様とは逆にプーチン氏は民族意識や力による歩み、権力と言う試みに負けたのだと思います。その試みに負けることによって、苦難は多くの人に及びました。そしてプーチン氏自身も苦難の歩みがこれから続くでしょう。アメリカからの情報だと、プーチン氏の精神状況がおかしくなっているのではないかとの見方もあります。早くプーチン氏の心に、へりくだりと悔い改めが生じるようにと願い祈ります。
さて、聖書から試みに関することを聞いて行きましょう。まず旧約聖書を見てみましょう。今日の日課の箇所を見ると、なぜこの箇所が今日の日課として選ばれたのか不思議に思いました。今日の主日の祈りを見れば少しわかりますが、なぜそう思うかというと、それはここには誘惑に関することは出てきません。あれこれ思いめぐらしていました。そして次に述べるように気付いたのです。この箇所はイスラエルの民がカナンの地に定着した後どのようにふるまうべきかを述べたところです。その土地に入って収穫した初物、地の恵みを持って神様の前にささげる事、さらに自分たちは小さな民であったが神様によって導かれ数の多い民となった、それによりエジプトの民から苦しみを与えられたが神様によって救い出され、この乳と蜜の流れるカナンの地に定着することが出来た。その土地でできた初物を献げますと告白するようにとのことでした。そしてその後そのものを分かち合って感謝して食べること、その事が示されています。これによって神様はどんなことを考えられているのでしょうか。それはイスラエルの民がこの神様によって守られ生かされているのだ、だからその事を感謝してこの神様を主として歩むようにと言うことであると思います。ではなぜこの箇所が今日の日課として与えられたのでしょうか。わたしはこう理解しました。今日の箇所は同時に、その後のイスラエルの歩みが考えられている。すなわちイスラエルの民はこの後偶像礼拝に陥ってしまいます。人のこの世での歩みがこの誘惑に何と弱いか。それを救うためにイエス様は試みに克たれたのです。イスラエルの民が入った地では先住民たちが偶像の神々を拝んでいました。その神々は豊かさや力をたたえた神々でした。結婚をしたりしてその神々に触れ、豊かさや力に引かれ、神様の元での命を忘れていったのです。人間はこの豊かさや力を神としてしまうことに何と弱いことでしょう。
イエス様の荒野での試みに移ってみましょう。イエス様は洗礼を受けられた後、霊に満たされてヨルダン川から帰って来られたと言い、さらに荒れ野の中を霊に導かれて引き回されたとあります。これはイエス様が悪魔の試みに会われることは神様の御心であったことを示しています。その試みは順番は違いますが、マタイ福音書と同じように3つの具体的な試みであったことが示されています。まずはパンが取り上げられています。これは食べ物全体を表すだけでなく、わたしたちの生活を支える衣食住全般に関することと見てよいでしょう。イエス様の空腹が頂点に達したとき、神の子なら石をパンに変えてその空腹を満たせと試みます。この試みは衣食住は神様によって与えられ、それを感謝して受け、用いると言うことから、それを自分で支配してしまうことへの試みでしょう。あの旧約聖書の日課が示していること、神様によって支えられ導かれ、神さまを主として歩むことから外れてしまうことでしょう。そこからさまざまな試みが生じます。小説のああ無情のジャンバルジャンが空腹のために一つのパンを盗んだこともそうでしょう。またテレビで物語を見ると、財産の争いから人の命を奪ってしまうこともこの試みの内に入るでしょう。
2番目の試みは世界中、国々を見せ、そこにある繁栄、権力を与えるとの試みです。この時悪魔は「わたしにひれ伏せ」ば与えると言います。この試みは現在の私たちにとって、いちばん身近な試みと言えるでしょう。ウクライナ問題のプーチン氏への試みは権力や支配、さらには民族の繁栄への試みでしょうし、物質文明の中における現代の私たちはこの試みに常にあっていると言えるでしょう。より豊かに、より便利に、そこを追求し、支配されている私たちはこの試みに負けていると言えるでしょう。この試みにおいて注目することは悪魔が「わたしにひれ伏せ」と言っていることです。暗い力に支配されるということです。そこに現われるのは貧富の差です。金持ちはより豊かになり、貧しいものは食べるにも困るようになっている現実です。あの旧約聖書の日課が終わりの部分で勧めている寄留の人達とも分かち合って食べる事とは逆の姿でしょう。
3番目の試みは神様をも自分のために用いるという試みです。この試みにおいて自分を神様の上においてしまう姿があるかもしれません。そこまで行かなくても自分の目的のために神様を用いてしまうのです。1番目2番目の試みにおいて、イエス様は自分の力で戦っておられるのではありません。み言葉、聖書の言葉によって悪魔の試みを退けられているのです。それを受けて悪魔は今度はこの試みにおいて、聖書の言葉によって、試みているのです。自分のために神様が助けてくださるという、神さまを自分のために用いる試みです。聖書の言葉を自分のために、自分を正当化するために用いる事への試みです。これは自分を中心において神様を自分のために用いると言う姿です。クリスチャンの私たちはこのことに注意しなければなりません。わたしには米国のブッシュ元大統領が、相手を悪魔と位置付けて、相手を滅ぼすのは正当であるとして、戦いを呼びかけたことは、この試みに属しているように思えます。神様の前に本当にへりくだらされたところから神様の御心を聞くことが大切でしょう。