2026年10月3日「神様のぶどう園」「西川晶子牧師」

礼拝説教

/2026年10月3日、4日  聖霊降臨後第19主日 礼拝説教要
旨

「神様のぶどう園」

イザヤ5:1-7、フィリピ3:4b-14、マタイ21:33-46
主人が自分たちに送ってきた僕を次々と殺し、ついには、主人の一人
息子を外に放り出して殺してしまった、ぶどう園の農夫たち、というイ
エス様のたとえ話です。ぶどう園はこの世界、もちろんそれを造った主
人は神様、そしてこの農夫たちは特にここでは当時の神の民の指導者た
ちを指すとされています。
神様は楽しんでこの世界を造られた、と今日初めに読まれたイザヤ書
の日課は語ります。そして、御自分が造ったこの世界をよく管理し、よ
い実りをもたらすことができるようにと、神の民にその管理をゆだねら
れた。しかし、にもかかわらず、その神の民の指導者たちは、預けられ
たぶどう園を自分たちのしたいようにしていいのだと勘違いしてしまっ
た。
第一の日課イザヤ書は、神は裁き(ミシュパト)と正義(ツェダカ)
を待っておられた、と語ります。この「ミシュパト」はこの文脈では「
公正」という意味で捕らえるのが妥当です。神が望まれるのは、この世
界に生きる人々が公正に扱われ、お互いに配慮し合い、特に弱い立場に
ある人々と共に生きることであった。しかしぶどう園を委ねられた人々
は、それを生み出すことができなかった。神がどんなに預言者を送って
必死に呼びかけても、その声がまったく届かない。ついには一人息子ま
で送られたのに、その主人の心が、彼らにはまったく響かない。
これは現代の、正義や公正を求める叫び声がないがしろにされ続ける
現実と重なるところがあります。神様は私たちに繰り返し呼びかけ続け
て下さっている、しかし私たちは、その神様の声を拒み続けている。そ
の行き着く先がイエス様の十字架であったのだとするならば、私たちは
まさに今日の福音書のとおり、神様に「ひどい目に遭わ」されても仕方
がない。しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった
」。都の外に放り出され、十字架に付けられたイエス様、しかし、その
先にあったのは、十字架からの復活でした。どうしようもない私たちの
仕業に対し、神さまはどこまでも愛を返してくださったのです。私たち
はその出来事に希望をもち、何度でも新しく歩みだすことが赦されてい
ます。その恵みに感謝して、またここから、神様から委ねられたぶどう
園に出かけたいのです。

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