2026年9月12日「神・赦し」「藤井邦夫牧師」

礼拝説教

/2026年9月12日「神・赦し」             藤井邦夫
創世記50:15~21、ローマ14:1~12、マタイ18:21~35

 今日の説教題を「神・赦し」としました。今日の3つの日課を見れば赦しは神様との
関係の中にあることがよくわかりますし、神様またイエス様抜きでは私たち信仰者の
赦しは考えられないからです。
今日は福音書を中心に見ていきたいと思います。福音書にまず出てくることはイエ
ス様とペトロの対話です。ペトロが「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべ
きですか。7回までですか。」と問うたのに対してイエス様が「7の70倍までも赦
しなさい。」と答えられたところから始まります。私の裏覚えの知識では仏教の「仏
の顔も3度まで」というのと同じように、ユダヤ教でも神様は3度まで赦してくださ
ると云うことがあったそうです。ですからペトロが7回と言ったのはたいしたもので
あるとペトロは考えて言ったでしょう。しかしイエス様は7の70倍と言われたので
すから、途方もない数字ですし、無限に赦しなさいと言われたのに等しいでしょう。
わーすごいと考えるだけでなく、私はこの問答の深いところ、本質を考えてみたい
と思います。7回赦すといったペトロはどんなだったでしょうか。赦すことはよいこ
とだから、3回ではなく、7回まで赦すなら、自分はたいしたものだという思いがあ
ったでしょう。すなわち赦す主体の自分に心が向いていたと思います。当然ですが、
自分が赦すのですから、自分に中心があるわけです。腹が立つけど3回までと言わず
7回まで赦そう。自分はよく赦した。もう8回目は赦さなくてもよい。あくまで中心
は赦す自分にあります。
それに対してイエス様は7の70倍赦しなさいと言われます。イエス様の心はどこ
にあるでしょうか。そんな回数はないと思いますが、ペトロがイエス様が言われたか
らと、490回我慢しながら赦したらどうでしょうか。もう一回もう一回と我慢しな
がら、490回赦して、ああイエス様の言われるとおり、490回赦せたと思ったら
イエス様のことばの本質に届いたでしょうか。私は違うと思います。イエス様の心、
無限大に近い回数赦せと言われたことは、赦す自分に中心を置くのではなく、赦され
る相手に中心をおいて、相手がよく生きれることに心を向け、願って赦すのだと思い
ます。すなわち愛の心に通ずるものであると思います。行為をする自分に心が向いて
いるか、赦す相手に心が向いているかはとても大きな違いだと思います。
さてイエス様のたとえ話に入っていきましょう。その時まず貨幣の単位を見ておき
ましょう。1タラントンは聖書の後ろにある「度量衡および通貨」によれば6000
ドラクメとあり、ドラクメは私たちが比較的知っているデナリオンと等価とあります
。ですから1万タラントンは6千万デナリオンに相当します。今のお金で1デナリオ
ンは1日の労賃と考えて1万円とすれば1万タラントンは6千億円、100デナリオ
ンは100万円に相当します。
さてたとえ話ですが、1万タラントン借金している家来がいました。どうしてそん
なに借金できるかと思いますが、たとえ話ですから。王は返済を求めます。当然返済
できません。そこで王は本人や家族、そして持ち物を全部売って返済するようにと求

めます。当時の奴隷としての価値にしてもそれほどのものはなかったでしょうし、家
来ですからそんなに財産もないでしょう。家来は「待ってください、きっと全部返済
します」と言います。6千億円ですからふつうは返済は不可能でしょう。でも頼むの
です。ここですごいことは王はこの家来の借金を帳消しにしたというのです。赦され
た家来は表に出て、自分がお金を貸した人に出会います。100デナリオンですから
100万円です。返済が可能な額です。しかし、家来は待ってくれというその人の言
うことを聞かずに、牢に入れてしまいました。
このたとえ話は私たちの罪とその赦しについて語っていると思います。すなわち1
万タラントンはイエス様が十字架にかかって私たちを贖い、神様の赦しの大きさです
。100デナリオンは私たちに対して他の人がした悪の大きさです。そのことをイエ
ス様はたとえで示されたと思います。でも私たちは神様の赦しの大きさをそんなに感
じていないかもしれませんし、逆に他人が自分にした悪の大きさは無限に感じている
かもしれません。神様の赦しの大きさを感じていれば、他人に対してもう少し寛大に
行為するでしょう。神様の赦しの大きさは別の角度からいえば私たちの罪の大きさ、
深さを示しています。わたしたちはふつうはあまり罪の大きさを感じていないでしょ
う。人のものを盗んだり、人の命を奪ったりしていないからです。しかし心の内を見
ると自分本位な姿に気づきます。原罪と言われるようなものです。それはどうしよう
もないように深いところで私たちを支配しています。
皆さんに話したように私は礼拝での聖書朗読の担当を比較的多くしています。その
とき1週間毎日朝晩に2回ずつ声を出して読んでいます。年を取って、目も衰えてい
るし、頭の回転も鈍くなっているから、よく読むには練習が必要なのです。3日ぐら
いたったころから、文章のまとまりが見えてきて読みやすくなります。その時自分に
問題を感じています。うまく読もうとしているのです。うまく読めたかを気にしてい
るのです。聖書朗読は聞いている会衆がわかりやすいことが大切なのだと思います。
でも自分に中心をおいて皆が聞きやすくではなくうまく読もうとするのです。本当に
自己中心があり、それはいろんなところで私を支配しています。1万タラントンの赦
しはそんな私の罪の赦しです。でもその罪をいつも気付いているわけではないですか
ら、イエス様を着るというか、イエス様と共に歩んでいただく必要があります。
最後に私たちの中で生じそうな問題を見てみましょう。群れの中でスムーズにいか
ない人がいます。多くの人はこの人は困った人だと思ってその人を否定します。否定
された人は気が弱ければそのままゆきますが、気が強い人だと、否定した人を攻撃し
始めます。そしてそれはお互いを苦しさの中に放り込んでしまいます。その時私たち
に生じることは、相手が悪いことを思うことと、自分の心の苦しさです。そこに私た
ちの目が、心が向くのです。これこそ私たちの原罪の深みです。パウルが言うように
なんと私たちは惨めなのでしょう。誰が救ってくれるのでしょうか。わたしたち信仰
者には「わたしたちの主イエス・キリストを通して感謝いたします。」ということが
与えられています。イエス様を身にまとうことができるのです。その時に生じること
はお互いの存在を認めることです。その存在を大切な存在と認めることです。すなわ
ち初めのぺトロとの問答で考えたように、自分に中心を置くのではなく、相手の幸い
を見るのです。すなわちイエス様が示された愛に生きることです。これもイエス様に

結ばれて、イエス様に導かれなければ、失敗したときに赦しをいただいて歩まなけれ
ばならないことです。