礼拝説教
/2026年3月14日、15日 四旬節第四主日礼拝説教要旨
「恵みが現れた人」
サムエル記上16:1-13、エフェソ5:8-14、ヨハネ9:1-41
「あの人が罪びとであるかどうか、わたしにはわかりません。しかし確かなことは、見えなかったわたしが、今は見えるということです」。この個所は、「Amazing Grace」という讃美歌のワンフレーズにもなっているところです。
正直なところ、無理解、物が分かっていないことのたとえとして「盲目」ということばを使うことには、個人的には少し抵抗がありますが、イエス様の時代において、目が見えないことは無理解や罪と当たり前のように紐づけられました。
しかしイエス様はそのような考え方に対し、「この人が目が見えないのは、この人や両親が罪を犯したからではない。そうではなく、神の業がこの人に現れるためである」と真っ向から反対されました。そして実際、イエス様によって目を開かれたこの人は、その存在において神の恵みを現わしていくのです。
しかし、それを認められなかった人々がおりました。当時すでに、ユダヤ人たちの間では、イエスが神から来た人であると認めるかどうか、大きな議論になっていました。そしてその中で、この見えなかった人の主張は退けられます。目が見えないということは「全く罪の中に生まれた」(ヨハネ9:34)ことなのだから、という理由で彼らはこの盲人であった人の意見を受け入れないのです。
イエス様はその彼らに「実はあなたたちこそ本当に大切なものが見えていない」と言われます。自分たちの正しさを守るためにイエスを罪びとと決め、この盲人であった人を拒絶する彼らこそが、神の恵みに目を閉ざしている。それは私たちの中にもみられることではないかと思います。神様や隣人に対して目を閉ざしていた自分に気づかされることは苦しいことです。しかし、そのときにこそ、わたしたちはその自分のすべてをあの十字架の上で背負ってくださった方のことを見上げたいのです。この目をあけられた人はいいます。「目の見えなかったわたしが、今は見える」。片隅にいた自分にあの方が目を留めてくださり、引き上げてくださった。それほどまでにその方を遣わしてくださった神様が、わたしを愛して下さっている。私たちもその同じ、驚くべき恵みにあずかっています。その恵みに立ち帰り、十字架の愛を見上げて歩みたいのです。