2025年10月4日「からし種のわたしでも」西川晶子牧師

礼拝説教

/2025年10月4日、5日  聖霊降臨後第17主日説教要旨

「からし種の私でも」

ハバクク1:1-4&2:1-4、Ⅱテモテ1:1-14、ルカ17:5-10

「からしだね一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して、海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」…このイエス様の言葉は、聞きようによっては厳しい言葉です。本当に心から信じれば、桑の木ですら自ら動く。そうならないのは信仰が足りないからだとおっしゃっているのだろうか、と。

この言葉は、「信仰を増してください」と言った弟子たちへの言葉であり、さらに直前のルカ17:1-4によれば、イエス様が「つまずきをもたらす者は不幸である」「七回人が自分に罪を犯しても、七回悔い改めれば赦してやりなさい」とおっしゃった、それを受けての言葉です。

ですから、ここで「信仰を増してください」と言った弟子たちの気持ちはわかるような気がします。もしそれが自分の何らかによって人がつまずくとしたら、それはとても怖いことです。だからこそ、そんなことにならないような信仰が欲しい。そういったことではなかったかと思うのです。

 しかしその弟子たちに、また今こうして聖書をとおしてみことばを聞く私たちに、イエス様はこうも言われます。「つまずきは避けられない」。わたしたちが生きるということは、つまずきの連続です。わたしたちは主に対して、隣人に対して過ちを犯しますし、その中で我々が持っていると思っている信仰など、本当に吹けば飛ぶようなからし種のように、揺らぎやすいのです。

しかしその、吹けば飛ぶような私たちのただ中において、「桑の木が海に移る」ような、およそありえない、私たちの思いをはるかに超えた神の恵みの力が働くのだ、とイエス様は言われます。それは私たちの内側からではなく、上から来る恵みです。ですからわたしたちは自分がもし弱くとも、それを超えて働いてくださる方に信頼することができます。私たちは、神さまの前にこう言うことしかできません。「わたしたちはとるに足りないしもべです、日々、与えられた場所を生きるだけです。」私たちの中には、からし種ほどの信仰もないのではないかと思われます。しかしキリストが、弱いわたしたちのただ中において、御自分の御心を行ってくださる。そこに信頼して、日々を歩んでいきたいのです。