2025年9月26日「まだ、間に合う」西川晶子牧師

礼拝説教

/2025年9月27日、28日  聖霊降臨後第16主日説教要旨

「まだ、間に合う」

アモス6:1&-7、Ⅰテモテ6:6-19、ルカ16:19-31

今日イエス様が語られた「金持ちとラザロ」の物語は、私たちに、死後の世界への不安を抱かせるものであるかもしれません。

もちろんこれは、「この世で苦しんだラザロが、神のふところへと招き入れられる」という、大切な約束も語ってくれています。イエス様のたとえ話の中で、名前のある登場人物はこのラザロだけです。イエス様がこの譬え話で示される、この世では名もなき者として苦しんだ人こそが、天国でしっかり記憶されている。これは大きな慰めです。しかしそれと同時に私たちは、この陰府で苛まれる金持ちのことを考え、自分は死後どうなるのかと不安になるのではないでしょうか。

しかしこの譬えは、イエス様が人を意味なく脅かそうと語られたものではありません。このたとえ話で問われているのは私たちの「今」です。この物語は死後の世界への恐怖を煽るためではなく、「取り返しがつかなくなってしまう前に、大切なことに耳を傾けなさい」と言うことを教えるためのものだと思うのです。

死後、陰府で苛まれる金持ちと天国のラザロの間には、超えることのできない淵が横たわっています。しかしこれは、この金持ちが生前、このラザロとの間に築いていたものでもあるのです。ラザロは生前、金持ちの「門の前」にいました。しかしにもかかわらず、金持ちは満たされ、ラザロは困窮していた。生前、越えようと思えばすぐに越えられたこの距離が、死後の世界のラザロと金持ちの間では、越えることのできない深い淵となって横たわっているのです。

しかし、わたしたちがいつの間にか築いてしまっている神さまとの間の越えられない淵、それを越えてきてくださった方がおられます。イエス様は神様のところから私たちのただ中に来て下さった、それは何より神さまが貧しい人の痛みや苦しみ、そして私たちが陥ろうとしている破滅」に心を痛めて下さったからです。私たちはイエス様の厳しい言葉にしり込みをします。しかしその御言葉こそが、私たちに大切なことを思い出させてくださるのです。淵を越えて私たちを捉えるために来て下さった方がおられます。そのすべてを越えてきてくださったイエス様からの、愛の招きのみことばに立ち返って歩みたいのです。