礼拝説教
/2025年9月6日、7日 聖霊降臨後第13主日説教要旨
「キリストを生きる」
申命記30:15-20、フィレモン1-21、ルカ14:25-33
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26)…つまり、「家族を、そして自分自身を憎め」とでも言われているような言葉です
親を大事にしなさい、パートナーを大事にしなさい、子どもを大事にしなさい、というのならわかる。しかし、イエス様は自分についてこようとする群衆に向かって、それらを大事にするどころか憎むようにと言われます。
ユダヤ世界の言い回しでは、「AをBより愛する」ということを示すときに「Bを憎む」という言い方をするそうです。ですから、今日のイエス様の言葉は積極的に家族を憎めということでは決してありません。家族や自分のことよりも、神さまを愛し、イエス様に従うことを優先しなさいということでしょう。
とはいえ、これは簡単なことではありません。しかし主イエスはここで、やみくもにすべてを捨てればいい、と言われているわけではないと思うのです。しイエス様は同じルカ福音書の別の場面(9章23節)では、イエスに従うということを「日々」十字架を背負ってわたしに従う、と記されています。ですからつまりこれは、日々の出来事を引き受けて生きるということであると思います。
それは、衝動に任せてすべてを捨てることではなく、むしろ福音書の後半で、「自分の持ち物を捨てる」ことを「腰を据えて、コストを計算する」ことと例えられているように、現実のただ中で踏みとどまって考え、キリストに従う道を選び取っていくことだと言えるのではないでしょうか。
その中で、自分の持つものを「憎む」とは、キリストの光の中で、わたしたちのいのちや大切なものを捉えなおして生きるということです。キリストの光を通して、自分の大切なものとの関係を絶えず捉え直しながら歩むことであると思います。それは決して簡単な道ではありません。しかしイエス様はここで「わたしの後についてきなさい」とおっしゃっています。私たちが「自分の十字架を担ってついていく」とき、その先頭に、十字架を担ったキリストが先立って歩んでおられます。その方が歩まれたいのちの道を、私たちも歩むものでありたいのです。